2017年11月04日

【動画】訣別


こちらのように同じ曲が別の歌詞で歌われることはしばしばありますが。
今回も日本人なら知らないはずはないあの曲が。。。


Wikipedia:有栖川宮威仁親王
BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン):有栖川宮威仁親王の地味にイイ仕事 大津事件の収拾を果たした功労者の生涯とは

こちらで聴いたように、もう一つの有名なほうの歌詞も実は防人歌でしたが。
今回のVerもそれ系です。
同じ「別れの歌」といっても、現代のわれわれとかつての日本人とでは、この曲を聴いて抱くイメージ・ニュアンスには、かなり違うものもあるのかもしれません。
それは単なるジェネレーションギャップなどという自然発生的なものではなく、もっとグロテスクな政治的悪意によって作為された差異であり断絶ではなかったでしょうか?
蛍の光の3番4番や、今回の歌詞を気にいるかどうかは、人それぞれご自由に、ですが……個人の趣味嗜好・好悪とは別に、これらの作品を意図的に抹消しようとしつづけてきた政治的悪意の存在は、「事実」として認識しておくべきではないでしょうか。

動画にもある通り、作詞者は(「御製」というテロップは不穏当ですが)有栖川宮威仁親王だそうで。藍川由美/安宅薫「ほんとうの唱歌史「海ゆかば」」によれば、
 『軍歌唱歌名曲選』の堀内敬三の解説によると、明治21年頃からよく歌われるようになった軍歌≪訣別≫と小学唱歌≪螢≫は、同一曲ながら別ルートで日本に入ってきたらしい。
 此の歌詞は元帥海軍大将有栖川宮威仁親王(大正2年7月10日薨)の御歌と傳へられ、古い頃から我が海軍では歌はれてゐた。
 曲はスコットランドの古民謡に同國の詩聖バーンスが1790年頃作詞した「オールド、ラング、ザイン」Auld Lang Syne
(久しき昔の日)の譜を其のまゝ用ひてある。
 記録によると、有栖川宮威仁親王は明治12年に約1年間イギリス海軍のIron Duke号に乗り組んで艦上作業に従事した後、明治13年1月から16年6月まで約3年半にわたりイギリスのグリニッジ海軍大学校に留学しているため、この時期に覚えたメロディーに歌詞付けした可能性が高い。
とのこと。

ちなみに明治4年から11年にかけては、東郷平八郎という名の「東洋の猿」も英国に留学していますが。海軍学校への入学を許可されず、ウースター商船学校に入学せざるをえなかったことは有名。
人種差別が云々という事情はありそうですが、一方で、威仁親王は問題なく海軍大学校に留学しているのですね。さすが皇族だけあって、薩摩の下級士族の青二才とはわけが違うというところ。英国もその程度の良識はわきまえていたのでしょうか。
(もっとも、アドミラル・トーゴーのその後の名声を思えば、英国としては先見の明を誇る機会を失ったとも言えますがw 都合の悪い部分には一切ほっかむりを押し通して、ウースター云々だけを恩着せがましく言いふらすのが白人クオリティでもあります。というより、ある意味、その厚かましさこそが国際的なスタンダードでしょうか。日本もそういう厚顔さは身につけるべきなのかもしれません?)

軍人としての名声は東郷に及ばないでしょうし、及ぶ必要もない(宮様には宮様の役割がある)でしょうが……

有栖川宮威仁親王といえば、皇太子嘉仁親王殿下(大正天皇)の教育係として、それまでの詰め込み教育を改め、健康第一のカリキュラムを組んだことで有名。大正天皇の皇太子時代の行啓のいわば立役者でもあり、その甲斐あって、この当時は皇太子殿下の健康状態もすこぶる良好になり……皇太子殿下も威仁親王を兄のようにお慕いになったとか。
Wikipedia:大正天皇少年時代
明治天皇は伊藤博文の奏上を受けて、これまで東宮職の役人に任せきりであった嘉仁親王の養育を教育から健康まで総合的に行うため、新たに東宮輔導の職を設け、有栖川宮威仁親王をこれに任命した。これ以降、嘉仁親王は威仁親王を兄のごとく慕い、のちに威仁親王が継嗣のないまま危篤に陥った時には、第三皇子・宣仁親王に高松宮の称号を与えることで、有栖川宮の祭祀を継承させている。
その他にも、大津事件の後始末に奔走し、外交問題化を防ぐなど、威仁親王、地味に有能な人物だったようですね。
〝せめて尽くせよ、大君に”
武家時代とは異なる、新しい時代の皇族として、軍人として、いかにあるべきか? 深く期するところがおありだったのでしょうか。
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posted by 蘇芳 at 20:53| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする