2017年10月26日

大祓か新嘗か


パワースポットブームだか何だかに伴って、しばらく前から「古神道」なる定義曖昧なふわっとした言葉で信者をアレコレしようという山師が湧いているような気がして気持ち悪い。
そもそも「古」神道といったところで、古いの新しいのというのは相対的な概念であって、どこに起点を置くかによって話は違ってくる。神道の歴史においてもいくつかの画期はあるだろうが、その画期のそれぞれから見れば、新しいものも古臭くなる道理だ。たとえばこちらで触れた渡会神道などは「ぼくのかんがえたさいきょうのかみさま」を作りだした当代の新興宗教のようなものだろうが、現代から見れば十分に古臭いことになる。
さらにはこちらで吉田神道と伊勢神道について書いたように、それぞれの神道が不倶戴天の敵という事例もあり、ふわっとしたイメージで十把ひとからげにされては当人たちが迷惑だろう。山師は知ったことではないのだろうが。

現代の山師が「古神道」を名乗るとき、おおむねは、「明治維新以前の古い神道」ということで、吉田神道や伯家神道、垂加神道、平田篤胤の復古神道などなどを各種取り混ぜていることが多いように見える。(もちろんカタカムナだのホツマツタエだのさらなる電波に走る山師も多いだろうが)
それらが自らの起源を事後的に捏造するのはよくあることだが、歴史的に見れば、おおむね、鎌倉以降、江戸時代にいたって百家争鳴を迎えた新興宗教の類であって、十分に「新しい」神道でしかないとも言える。
とすれば、それら新興宗教以前の神道をこそ、「古神道」と呼ぶことも不可能ではないだろう。もちろん、重要なのは単なる時系列上の新旧ではなく、それら新旧神道間にいかなる本質的な差異を見出すことができるか、であるが……

表面的に見れば、その「差異」には仏教の問題がからんでいると思われるかもしれない。実際、こちらで考察したような仏教に対する羨望・嫉妬・ルサンチマン・対抗意識などのモチベーションは、吉田神道に特に顕著かもしれない。渡会神道においては仏教よりも内宮に対するルサンチマンのほうが目立つのはこちらなどで言及した通りだが、それでもなお、その聖典の一つ「倭姫命世紀」では、倭姫命自身の発言(教え)に「仏法ノ息ヲ屏シテ、神祇を再拝し奉レ」と明言されていもする。

しかしそうした仏教との関連だけが、ここで言う「差異」のすべてだろうか?
自覚的な対抗意識とは、要するに教祖たちの自意識の産物であって、あからさまに見えやすくはあるが、その分、かえって表面的であるかもしれない。
第一、そもそも、神道も「古」神道も、仏教との対比でしか把握できない、アンチにすぎないというのなら、信仰としてあまりにも貧しいというものではないか。

当ブログで何度も引用しているように、頼山陽は、
吾れ嘗て称す、王業衰へて神道興ると。何となれば即ち、これ祖宗の事なればなり。王政の盛時に当り、誰れか敢てこれを口舌に騰げ、以て私説を樹てんや。
(頼山陽「日本政紀」)
と書いたが、神ながらの道の本来の本質がそうした「王業」であるとするならば、仏教など、些細な問題でしかないとも言える。蘇我氏や道鏡などしばしばとんでもない逆賊・朝敵を生みやすいのは実用上困ったものではあるが、本質の上から見れば、所詮、八百万の神にまた新しい神が追加されたというだけのことでしかない。
たとえ朝敵が現れたとしても、それで仏神自体を捨ててしまうのではなく、それらを調伏し、無害化したうえで、有用な道具として使いこなそうとされた。それこそ「王業」の一面であったと言えなくもない。八幡神の例もある。あれだけ複雑な習合形態を示す神を、二所宗廟の一つとして、伊勢神宮に並ぶ存在として吸収することさえできてしまうのが、わが皇室の「王業」の底知れなさではないか。

では、その「王業」の本質とは何か?
神道的には当然、三大神勅に行き着くのではないだろうか。

前置きが長くなって恐縮だが、その神勅に見られる「ことよさし」に注目して、鎌倉以降の新興宗教と、平安以前の古神道の間に、本質的な差異を見ようとする文章が、保田与重郎の著述の中にはあるようだ。
こちらで「天杖記」にふれたが、最近、保田与重郎に興味が出てきている)
 大祓の詞によつて、罪の意識を、神學的に説くことは、江戸時代になつて、異様にさかんになつた。その頃の學者たちが、祭祀としての新嘗を、政治の眼目とするやうな思想は、単純すぎて未開だと思つたのである。
 わが國の新興宗教は、早くも鎌倉時代この方、ことばの上で神道の色彩がつよい。この頃よりの新興宗教にはいづれも外來思想の影響が多く、大祓の詞をもととして、罪穢の観念から、敎學をたてた例が多い。「延喜式」から考へられるわが古神道の構造と思想の中では、大祓は新嘗を行ふための祓で、極めて抹消的な地位である。大祓詞が、古代の文章として、特別にすぐれた絶品だといふことは、この場合別の話である。大祓の詞を、日本の神道の根本敎典のやうにしたことは、わが國の古神道の自然の考へ方をゆがめたのである。
六月晦大祓「校註 祝詞 (保田与重郎文庫)」所収
保田の文章はもってまわってしちクドく晦渋でわかりにくいことこの上もないが、本書に収録されている「年の初め」や「六月晦大祓」はかなり読みやすい部類ではあると思う。
上の引用からだけでも、保田が、鎌倉~江戸時代の「新興宗教」の眼目が「大祓詞」であるのに対して、それ以前の「古神道」の眼目は「新嘗」であると考えていることは、容易に読み取れるのではないだろうか。

(そもそも保田は鎌倉時代この方あらわれた「敎學」の数々を「ことばの上で神道の色彩がつよい」だけの「新興宗教」と断定し、神道そのものとは区別している。それら鎌倉以降の「敎學」をこそ、古神道でございと売りこんで、あの祝詞で浄化ができる、あの祝詞で願望が叶うと言い立てる現代の山師は、保田的な観点に立てば、文字通り「お察し」でしかないことになりそうだ)

「神道は祓に始まり祓に終わる(ドヤッ」
とは、神道を軽くかじれば誰もがたやすく口にする言葉で、おそらく当ブログでもどこかで知ったかぶって書いたことがあると思うがw
保田に言わせると、そのように祓を重視する思想それ自体が、神道の宗教化の結果そのものであるようだ。
それ以前の「古神道」の本質はあくまで「新嘗」にあり、つまり稲作であり農業であり、農耕にまつわる祭祀であり、それは観念的な宗教ではなく、生活そのものでもある。らしい。
 日本の神話では、いはゆる天孫降臨といふ。高天原から皇孫命が天降りされるとき、神聖な稲穂を、天上の神からこと寄さされた。そのとき神勅があつて、この米を作つてくらしのもととするなら、地上においても、また、天上の神々と同じくらしの風儀ができる。地上の國もみな、天上の神々の國と等しい神國となるだらう、と敎へられた。この責任を神に對し負ひ給ふのが皇孫である。すなはち天皇陛下である。このことを西洋風の原罪といふ思想と照合すると、天降りの精神において、まつたく異なることがわかる。わが國の神話には原罪の思想はないのである。
 わが國の神話は、このやうに農耕の神話である。多くの民族神話は、闘ひや、爭ひから、ときには自然の證明から始まる。しかしわが國の神話は、絶對平和の根柢を生活として敎へる神話である。この神話をもつとも精密に傳へたのが、延喜式祝詞である。封建末期の國學者鈴木重胤大人は、延喜式祝詞は日本の國の憲法だといつてゐる。
もちろん、このように農耕生活を理想化することも、所詮はまた別の「敎學」の入口であって、日本浪漫派の浪漫派たる所以ではあるかもしれない。また、そうした農本主義的浪漫は、おそらく原始共産制の妄想とも親和性があり、それこそが全共闘の学生が保田を愛読したという理由の一つでもあったかもしれない(違うかもしれない。全共闘など汚らわしいだけで興味もないので、奴らが何を思って保田など読んでいたのかよく知らない)。

どこまで素直に読んでよいのか、保田を読み始めて間もないので、正直、はかりかねている面はある。
しかし、どれほど外見がまぎらわしかったとしても、金無垢と金メッキを混同しては大損であることもまた確かだろう。

こちらで死後の救済や現世否定の観念を持つ宗教とわが神道との違いについて考察し、こちらで救済という目的へ向かう宗教の単線的な時間とわが日本の永続する循環の時間感覚の差異を考え、こちらこちらで稲作を中心に組み立てられた祭祀について語ってきた当ブログとしては、外宮神主にもかかわらず食事や諸産業の神様としての豊受大神を否定して天地創造の根源神に仕立て上げようとした渡会神道の増上慢よりも、保田与重郎の難解な思弁のほうが、日本人としてはるかにまっとうで健全な「こころ」を保っているのではないか。そう思えて仕方がない。
日本列島 田ごとの早苗 そよぐらむ けふわが君も 御田にいでます(皇后陛下御歌)
こちらでもこちらでもこちらでも引用した皇后陛下の御歌は、君民共治の国柄を端的に言い当てられた名歌中の名歌と拝するが、保田の直観もまた(単なる唯物的な農本主義などではなく)この国柄を正しく見据えてはいたのではないか。どうも、そう考える誘惑に抗しきることができない今日この頃。

全共闘の愛読書などと聞くと汚らわしさしか感じられないのも無理はないが、イデオロギッシュな読者が作家の真意を正しく理解していたとはかぎらない。保田にダメな部分や危険な面があるならあるで、それも含めて、じっくり読み解いてみる価値はあるのではないかと、しちめんどくさい文体に辟易しながら、少しずつページを繰ってみている(新嘗祭も近いことでもあるし)。
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ラベル:新嘗祭 神道 国学
posted by 蘇芳 at 22:33| 神道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする