2017年10月12日

夜はほのぼのとあけそめて


夜久正雄が大正天皇の最後の御製を「悲痛凄絶な絶唱とも拝誦される」と評したことにはこちらでも触れた。文学作品の「正解」については異論はいくらでもあるだろうが、そういう解釈の余地があることは確かなように思える。

しかし一方の皇太子殿下(昭和天皇)の御歌については、余計な複雑な穿った「解釈」の余地はなさそうだ。
とりがねに夜はほのぼのとあけそめて代代木の宮の森ぞみえゆく
夜が「ほのぼの」と明けそめて、さわやかな朝が始まる。ここでいう「代代木の宮」といえば明治神宮だが、「さしのぼる朝日のごとくさわやかに」とお詠みになったのは、まさにその明治天皇。その大御心さながらの畏くもめでたい御製ではないか。

付け加えると、明治神宮の創建は大正9年11月1日、この御歌が発表された歌会始の2か月前でもある。
年の始まり、朝の始まり、神社の始まり。
やや牽強付会めくかもしれないが、いくつもの「始まり」のすがすがしさがこの一首に凝集していると言って言えないことはないかもしれない。

しかしまた、それこそ、その後の歴史を知ったうえでの付会かもしれないが、「始まり」といえばもう一つ、新しい御代(昭和)の事実上の始まりもまた、この御製を拝誦する誰もが意識せざるをえないところだろう。
もちろん、皇太子殿下の摂政就任はまだもう少し後のこと(同年11月25日)ではある。先走った解釈は慎むべきかもしれないが、大正天皇の御不例は今に始まったことではなく、御病状の悪化に伴って、摂政設置の可能性は内々でささやかれ始めていたはずではあろう。
皇太子殿下もすでにご成人あそばされて(※天皇・皇太子・皇太孫の成人は18歳)、四月には20歳におなりになる。近い将来への予感や御自覚はすでにお持ちであったとしてもおかしくはない気はする。

となると、御歌自体は平明で、余計な、穿った解釈の余地はないとしても、そこで「社頭暁」の「社」として詠みこまれたお宮が、賢所でも伊勢神宮でも出雲大社でもなく、明治神宮だったことには、多少の深読みの余地が生じてくるかもしれない。
昭和天皇が祖父・明治天皇を深く尊敬され、師表とも仰がれたことは有名だろう。
生まれながらの皇太子として、父帝の病は、子としての憂慮と同時に、来るべき時代への覚悟と自覚とを迫るものでもあったとすれば、今や神とも仰ぐべき祖父大帝の存在をあらためて想起されることは、自然なことでもあったかもしれない。

しかし、また、こうも思う。

明治天皇を師表と仰いだのは、何も天皇だけではない。顕職顕官から一般庶民に至るまで、聖徳讃仰・追慕の声は巷に満ち、だからこそ、崩御後10年も経たぬうちに、明治神宮の創建ともなったのだろう。
しかして、そのあまりにも偉大な父・明治天皇と、生涯を通じて、ことあるごとに比較されつづけたのが、大正天皇であらせられたのではなかったか、と。

御製集を拝誦すれば、大正天皇がことのほか繊細な鋭敏な感性をお持ちであったことは、容易に拝察できる。
あまり畏れ多い想像は慎むべきには違いないが、そんなやわらかい感受性の持ち主にして、神格化された父帝との(言外の批判を含んだ)比較にさらされつづけることは、どれほどの重圧でありえただろうか?
その重圧が直接、重大な結果に結びついたと即断することには慎重であってもよいが……
事あるごとに明治天皇を引き合いに出しては苦言を呈する山縣有朋を大正天皇が煙たがっておいでになったとか、逆に、明治天皇とは異なる大正天皇の「個性」を積極的に認めようとする大隈重信は寵愛を受け、ために山縣や原からは追従屋と誹られたことなどは、巷間、知られた挿話ではあるだろう。
また、こちらの動画では、「万事御窮屈にあらせられ」た大正天皇についての、後年の昭和天皇のご回想なども引用されていた。

父帝の御病状にお心を痛めつつ、近い将来の摂政就任の可能性を意識するとき、若き皇太子の胸中にはどのような思いが去来していただろうか?
昭和天皇は明治天皇を尊敬し、理想とされた。それは事実として、それは単に「昭和」と「明治」の直結だけに終始する話だろうか? むしろそのはざまの「大正」の屈折を経由したうえでの話でもありうるのではないだろうか?

「摂政」は体言でもあるが、用言でもある。「摂政する」といえば、天皇になりかわって国政全般を代行するということ、もっというなら、天皇になりかわって諸事万端を〝引き受ける”ということでもあろう。
となれば、皇太子は、まさにこの「明治天皇のごとくあれ」という全国民挙げての「重圧」そのものを、父帝になりかわって〝引き受け”ようとなさったとも言いうるのではないだろうか。
とすれば、そこに見出されるのは、摂政・将来の天皇としての覚悟や聖徳であると同時に、子としての孝心でもあるかもしれない。というか、そうあってほしい。
巷には、大正天皇は摂政設置を拒みつづけておいでになったという話もあり、昭和天皇は父帝から地位を「奪う」形になったことを苦にしておいでになった、などと推測する向きもあるようだが……それはあくまで「形」のうえからの結果論であって、その解釈にだけ終始することはあまりにもいたましいというものだ。
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posted by 蘇芳 at 16:10| 昭和天皇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする