2017年10月11日

かつうすれ行く


大正天皇の御製集「おほみやびうた」収録の大正十年の御製は、「社頭暁」と題した歌会始の一首のみ。
神まつるわが白妙の袖の上にかつうすれ行くみあかしのかげ
そして時系列で言えば、今のところこれが(公開されている中では)大正天皇最後の御製。
当時すでに大正天皇の御病状篤く、御公務をお休みになる場合も増え……やがて同年十一月には正式に皇太子殿下(後の昭和天皇)が摂政に就任あそばされることにもなる。

むろん、御製のすべてが公開されているとも限らず、これ以降にも他に未公開の御歌が絶対になかったとは言いきれないかもしれない。
また、歌会始で発表された御製というのは、つまるところ前年中にお詠みになっていた御歌ということでもあるかもしれず、大正十年という政治日程と照らし合わせて、そこに過剰に運命的な響きを読み取ろうとすることは、失当である可能性もあるかもしれない。

しかし、大正天皇のその後の御境涯や、鋭敏な詩人・歌人としての感性を思うと、やはり、どうしても、そこにある予感的な陰りを感じずにはいられないのも確かではないか。
同じ大正十年の歌会始で発表された摂政宮の御歌のほのぼのとした明るさと対照させてみるとき、ことにその思いは深くなる。
とりがねに夜はほのぼのとあけそめて代代木の宮の森ぞみえゆく
夜の終わりと朝の始まり。
同じく「暁」を詠いながら、和歌というもの、かくも印象が異なるものか。

大正天皇の最後の御製は、なぜ、こうも悲痛に思えるのか。「最後の」という先入観を排してみても、用語の選択に、なお、合理的な理由はあるように思う。
それは要するに、「かつうすれ行くみあかしのかげ」という、「うすれ行く」の一語であり、その語が修飾し念頭においているのが「みあかし」であるという点。

「みあかし」の「み」は尊敬の接頭語。言うまでもなくそれはただの照明ではない。「神まつる」神前の燈明というのは、それ自体、神聖なもの。
夜が明けるという現象、周囲が明るくなっていき、闇を照らしていた燈火のまばゆさがさほどのものとも思われなくなっていくという光景が、ここでは、神聖なものの「うすれ行く」様として観念されている。ように読める。

人間は夜の闇を恐れてきた。
夜の闇を「魔」の跳梁跋扈する時空間として観念するのは、洋の東西を問わず、一般的なことでもあるだろう。
しかし「恐れ」は「畏れ」でもある。
魔的なものも神的なものも、非・人間的であるという点では共通している。人間的な善悪と必ずしもイコールではないカミ観念を持つ多神教世界ならなおさらだ。
「浄闇」という言葉があるように、人間の寝静まった夜の闇こそ、単に魔的であるだけでなく、同時に、神々が活動される神聖な時間であり空間でもあるらしい。
御製のいう「社頭暁」とは、この意味の連関においては、朝の始まりではなく夜の終わりであり、夜の終わりとは神的なものが活動される清らかな時空間の終焉ということにもなりうる。
とすれば、その神聖性が「うすれ行く」とお詠いになる御歌の響きに、反射的に穏やかならぬものを感じてしまうのは、おかしなことではないのではないだろうか。
何となれば、神的なものというのは、神々の裔であり、祭祀の中心たる天皇にとって、他人事では決してないのだから。

しかし同時に、こうも言える。
夜の終わり。祭祀の終焉。神聖性がうすれ行く。
それは確かに、神聖性の「喪失」、俗悪への堕落として、ネガティブに観念することも可能だろう。
と同時に、あまりに厳粛で人間一般の日常意識では長くは耐ええない神聖性にかわって、温かい人間性が甦り、ほっと一息つく。夜の終焉は祭祀の完了でもあり、厳粛な祭祀をやり遂げて、神々の時空間から、人間の時空間に回帰する、と、ポジティブにとらえることもできるのではないか、と。。。

同じ歌会始に同じ題の御歌をお詠みになって、大正天皇と昭和天皇と、御歌の響きがかくも見事に対称するのは同じ「夜明け」をどうとらえるか、その着眼の違いによるのだろうか。
その相違が、5年後に崩御される父天皇と、新しい御代を負って御立になるべき若き親王のお立場の相違によるものか、歌人・詩人としての感性の相違によるものか、にわかに決しかねるが。。。
もとより大正天皇の御製集を拝誦すると、明治天皇とも昭和天皇とも異なる「歌風」が、私ごとき有象無象にさえしばしば感じられる気がすることがあることは確かであり、
神まつるわが白妙の袖の上にかつうすれ行くみあかしのかげ
の御製もまた、大正天皇ならではの一首であることには違いないように感じる。

むろん、かくいう私ごときは、特に文学的素養を持ち合わせているわけでもなければ、鋭敏な言語感覚を持ってさえいるわけでもないが……
同じ御製を「悲痛凄絶な絶唱とも拝誦されるこの御製」と表現したのは、夜久正雄「歌人・今上天皇」の一節であって、何も私一人の勝手な深読み・思い込みというわけではないのかもしれない。
そして、たとえ経験としては「悲痛凄絶」であっても、それが「うた」として表現され鑑賞されるとき、一種の「美」として昇華されうる。それが神的でも魔的でもありうる文学というものなのではないか、とも思えるのだ。
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ラベル:大正天皇 天皇
posted by 蘇芳 at 16:33| 大正天皇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする