2017年09月29日

【動画】世界と戦った 日本人の歴史~幕末激動編~第17回「馬関戦争 ~長州、 日本と世界を敵に回す」


チャンネルくららから。



新撰組というのは京都守護職松平容保直属の治安部隊。動画でも「SAT」と言われていますが、要は武装警官みたいなものでしょうか。
薩摩も会津も、つまるところ新撰組も、この時点では、一丸となって、逆賊長州から孝明天皇をお守りする仲間であり官軍です。
それがいつのまにか逆賊に仕立て上げられてしまうのですから、会津も新撰組もいい面の皮。長州はもちろん、憎むべきは薩摩の裏切りでしょうか。

薩摩や長州は何を考え、なぜ討幕に踏み切ったのか。その判断の是非が問われる一方で、
会津や桑名や一橋は、それでは何を考え、実行し、どれほどの成果を上げていたのか。また、挙げうる可能性がったのか。それもまた問われなければならないでしょう。

前回前々回も書きましたが、本来、長州ごときが中央の政治に口を出す必要も義務も責任も権限も何もありませんし、実際、自滅的なテロ(≒刑事事件)をくりかえすだけで、中央政界の方針に容喙できたわけでもありません。
ましてこの後は、動画でも言われている通り、長州は「最後まで逆賊」ですから、それこそ、幕府の政治に口だしできるわけがありません。

このころ、中央の政治を実際に運営していたのは、幕府(将軍家茂)であり、その後見・一橋慶喜を中心とした、いわゆる一会桑政権でもあったでしょうか。
長州をテロリストだ犯罪者だと非難するのはたやすいですし、実際まちがいなくテロリストですが。一方で、実際に政権に参与していた会津や桑名や一橋は、日本を守るために、どんなご立派な政治を行っていたのか? 長州や薩摩が余計な騒ぎを起こさなくても、幕府や一会桑にまかせておけば、すべてはうまく行き、日本の独立維持も近代化も富国強兵も日清戦争も日露戦争も、見事に切り抜けることができたのでしょうか? 本当でしょうか?

いわゆる「敗者の日本史」的に、会津に肩入れする史観は、昔からありますが……

こちらで少しばかりIFを述べたように、安政の大獄以前ならまだしも、流血のスパイラルに突入した家茂の時代に、今さら、公武合体で国内をまとめ切ることが、幕府や会津や桑名に可能だったのか? 個人的には疑問に思います。

動画でも言われているように、長州はこのあとずっと逆賊です。裏を返せば、幕府や会津や桑名はこれまでもこのあとも(孝明天皇の御代においては)ずっと官軍です。
長州ごとき外様とは違って、実際に政権運営に参与できる立場にありながら、それでは、水戸や会津や桑名や尾張や紀州は、何をボヤボヤしていたのか?
幕府とて完全にノープランで手をこまねいていたわけではないのでしょうが、それで国内をまとめきることができなかったこと、実際に幕府の力量が不十分だったかどうかはさておき、少なくとも不十分だと考える層の増加を食い止めることができず、求心力を失っていったことは、間違いないのではないでしょうか。

頻発するテロのなかで、頼むに足りない幕府という「印象」は、人心の動揺を招き、幕府の弱体化をさらに促進さえしていったかもしれません。
何となれば、人間を動かすのは、しばしば、「事実」ではなく、「解釈」ですから……
まして、こちらこちら、またこちらなどで考えてきたように、幕府というシステム自体が、対外的存立の危機にこそかえって分派抗争に陥りやすい性質をはらんでいたとしたら、なおさらだったのではないでしょうか。