チャンネルくららから。
前回も書きましたが、本来、長州がでしゃばるような場面ではなかったわけですし、藩論としても俗論派が優勢。その現実路線を事なかれ主義と批判するのは、後知恵でならたやすいですが、当時はそうでもないでしょう。
それでもひた走ったのが高杉たち正義派という名の危ない連中ですが。
彼らの信念または狂気を支えたものは何だったのか?
松陰の教え、松陰の死、支那の惨状の実見聞、いろいろなことが言われたりはするでしょうが、その程度のことなら、他藩にも似た経験はあったかもしれません。越前は橋本佐内を殺されていますし、海外の情報を得ていたのも何も長州だけではないでしょう。
動画で言及されている「攘夷実行」にしても、単細胞な攘夷の不可能性は、すでに誰の目にも明らかだった。にもかかわらず、ただ長州のみがそれを断行した、というのなら、外国に対する知識や認識の多寡だけの問題ではないのかもしれません。
(ちなみに薩英戦争はすでに終わっています。その情報も伝わっていたはずでしょう)
長州の攘夷決行は文久3年(1863年)5月ですが、その後、同藩は、同年6月には米仏による報復攻撃、同年8月には八月十八日の政変、翌元治元年(1864年)7月には禁門の変、8月には四国艦隊の来襲(wiki:下関戦争)、そして二度にわたる長州征伐、と、怒涛の勢いでさんざんな目に合います。
高杉たちがそれで懲りでもしたかといえば……
俗論派に対する正義派の決起(wiki:功山寺挙兵)はこの一連の流れの直後、元治元年12月15日(1865年1月12日)ですから、やはりどうにも正気の沙汰ではありません。
しかして、その「狂気」があったればこそ、維新回天もありえたのでしょう。
長州はテロリストだと言われれば、それはまさしくそのとおりでしょう。
それでも、幕末・維新には、そんな長州のテロリズムこそが必要だった、のだとすれば……
同じことを何度もくりかえすようで恐縮ですが、こちらでも書いた「有事における狂気の必要性」は、やはり、国難に処すべき愛国者に対して、今もなお大きな問いをつきつけつづけているのかもしれません。