チャンネルくららから。
動画でも言われていますが、本来、長州がしゃしゃり出てくる場面ではありません。
安政の大獄にしても、薩長史観でこそ吉田松陰が殺されて尊攘運動の火に油が注がれたように言われることもありますが、幕府というか井伊直弼にとってそんなことよりはるかに重要だったのは一橋派の弾圧であり、あくまで幕府内部の派閥抗争。吉田松陰だの橋本佐内だのは井伊にとってはついでのおまけのようなものでしょう。
松平春嶽のブレーンだった橋本佐内ならまだしも春嶽の身代わりのような意味もありえたかもしれませんが、松陰にいたっては長州藩自身が持て余していたふしもあり、井伊の関心はさらにいっそう薄かったかもしれません。
その後の桜田門外の変も、下手人はあくまで水戸浪士であって、長州や越前はお呼びではありません。それというのもそもそも「一橋派」というのが、こちらでも書いた通り、水戸の藩主が自分の息子を将軍にしようとした派閥だったからではないでしょうか。
その後、将軍家茂の時代には、確かに尊攘運動の火に油が注がれ、流血のテロが頻発しますが、テロはどこまで行ってもテロ=犯罪にすぎません。薩摩の寺田屋事件は薩摩藩自身によって鎮圧され、高杉のテロ計画にしても動画で言われているように長州藩自身によって制止されています。この時点での志士の過激な行動はあくまで個々の犯罪者による刑事事件であるにすぎず、国政をその本質において左右するほどのものではなかったのではないでしょうか。
(桜田門外の変でさえ、それで南紀派が失脚したわけでもなければ一橋派が復権したわけでもありません)
後に長州と同盟を結ぶ薩摩にしてからが、この時期には一貫して一橋派として行動しており、文久の改革を以て、あくまで公武合体を目指していました。
そうした中央政界から見れば、長州などは、本当にお呼びではない外様の田舎侍にすぎなかったのではなかったでしょうか。
にもかかわらず……
その長州こそがやがて幕末動乱の焦点となっていくのですから、わからないものです。
薩摩が幕府・一橋派に見切りをつけたとき、ちょうどその対極の勢力として長州が控えていた、そのめぐりあわせは、後から見れば運命的とも見えるかもしれませんが……
長州といえども、本来は俗論派のほうが勢力が強かったのですし、高杉晋作なかりせば、正義派の決起もなく、維新「回天」もまたありえなかったはずでしょう。それはつまり薩長同盟による討幕もなかったということで……長州藩内の勢力図からすれば、その可能性のほうがはるかに高かったかもしれません。
その可能性を覆した功山寺挙兵。それをなさしめた高杉晋作こそは、考えようによっては西郷・大久保をさえしのぐ維新のキーパーソンなのかもしれませんし、その高杉に影響を与えた吉田松陰もまた、影の大立者というべきでしょうか。
動画でも引用されている松陰の有名な言葉、
死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべしは、安政六年のまさに高杉晋作宛書簡が出典ですが……
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし
この言葉を直接に贈られた高杉にとって、松陰の死こそ、文字通り「不朽」の死の実演であり、お手本だったのかもしれません。
松陰の生前には、師の過激なテロ計画に反対し、久坂玄瑞らとともに師を諫めさえした高杉でしたが、安政の大獄以後は、それこそ、松陰の「留魂」がのりうつりでもしたかのように、過激な性急な、時期も成算も度外視したかに見える、本当の意味で命がけの行動に邁進していくのでした。(合理的に考えれば功山寺挙兵のどこに勝算があったでしょう? 御成橋の狂挙もまさに「狂」っています)
長州の過激派に、そうした自覚的な狂気の根拠ともなりうる象徴的な「死」を与えてしまったのだとすれば、それこそは、井伊直弼最大の誤算だったとも言えるかもしれません。