チャンネルくららから。
たまたま艦長に当たっただけだと強調してみたり、薩摩の言い分「では」勝利と揶揄してみたり、倉山氏の話ぶりだと、双方の間抜けさが強調されすぎて、これを契機に薩摩と英国が接近した理由がどうにもよくわかりません。
一方、wikiソースなので話半分ですが、
wiki:薩英戦争≫戦闘の結果という情報などもあるようです。薩摩側の砲台によるイギリス艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人(旗艦ユーライアラスの艦長や次官司令の戦死を含む死者13人、負傷者50人内7人死亡)に及んだ。一方、薩摩側の人的損害は祇園之洲砲台では税所清太郎(篤風)[2]のみが戦死し、同砲台の諸砲台総物主(部隊長)の川上龍衛や他に守備兵6名が負傷した[27]。他の砲台では沖小島砲台で2名の砲手などが負傷した[28]。市街地では7月2日に流れ弾に当たった守衛兵が3人死亡、5人が負傷した。7月3日も流れ弾に当たった守衛兵1名が死亡した。当時の世界最強のイギリス海軍が事実上勝利をあきらめ横浜に敗退した結果となったのは西洋には驚きであり、当時のニューヨーク・タイムズ紙は「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」とし、さらに、「西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくいかないだろう」とも評している[29]。
本国のイギリス議会や国際世論は、戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要以上の攻撃であったとして、キューパー提督を非難している。
動画でも薩摩側は山に避難していたと言われていますが、結果的に、死傷者数は英国のほうが薩摩を上回っているのですね。
黄色いサルを相手にこの結果、というのは、当時の白人にとっては、現在からは想像できない大きなインパクトを持ちえたかもしれません。
英国があらためて日本に興味を持つことの背景にそのインパクトがあったとして、冷静に眺めてみれば、日本にはやはり、後々、日英同盟に結実する戦略的意義があったはずです。
何となればこちらやこちらなど、チャンネルくららでくりかえし語られているように、この時代の焦点が英露対立であるとするなら、ユーラシア大陸の反対側という辺境のど田舎でロシアと国境を接する日本こそは、日の沈まない帝国にとって、本国から最も遠い最前線。その日本にもしも見どころのある戦闘集団が存在するとすれば、それこそは、大英帝国にとって格好の傭兵・防人になりうるかもしれないのですから。
薩英戦争といえば、かつてはひたすら薩摩側のターニングポイントとしてのみ語られることが多かった気もしますが、英国にとっても、ある種の画期だったのかもしれません。
また、倉山氏のシリーズでも、こちらなど、パーマストンの砲艦外交を、ビクトリア女王は必ずしも喜んでいなかったような話は何度か聞いたことがあったと思いますが……
上のwikiと並んで、
鹿児島市明治維新150年カウントダウン事業「維新のふるさと 鹿児島市」:薩英戦争に対するイギリスの反響などという話もないことはないようです。戦争の結果はイギリス本国に報告されました。ビクトリア女王は交戦になるのではないかと懸念していたことが現実となり、英国議会の開会挨拶の中で、鹿児島市民に多大な被害を与えたことに対し遺憾の意を表明しています。イギリス国内においては、英国艦隊の行動を批難した住民の抗議集会などがあり、各地で批難の決議や書簡が政府や報道機関に寄せられています。交戦時に砲台を壊滅する必要はあっても、市街地を焼き払い、一般市民に多大な被害を与える行為は許せないとの声であり、人道的な立場からの深い同情の念が示されたものでした。イギリス艦隊が、再び鹿児島砲撃に向かわなかったのは、こうしたイギリス本国の事情があったからだといえます。
これも薩摩(というか日本)に幸いしたのでしょうか。
そういえば後に日清戦争の時、高陞号事件が起こりますが……このときに、日本を救ったのも、ホランドやウェストレーキといった、英国自身の知性・理性でした。
倉山氏の動画では、艦砲射撃は男のロマン、パーマストンやりたい放題、と、面白おかしく語られていて、それはそれでよいですが。さすが世界を席巻した大帝国だけあって、単なる脳筋ではない。国民の層の厚さには恐るべきものがあったのではないでしょうか。
文久の改革の「五年後」に明治維新、ということは、つまり、生麦事件の「五年後」に明治維新ということでしょう。
薩英の衝突と接近から始まった明治維新・新政府は、やがて日英同盟の時代を迎え、日露戦争・第一次大戦の勝利をもって名実ともに五大国の仲間入りを果たして絶頂期を迎え、やがて日英同盟の破棄以降、歯車を狂わせていく……とすれば。
日本近現代史上、ペリー来航(日米関係)より以上に、日英関係こそは、重大かつ決定的な意味をもっているのかもしれません。戦後は、どうにも、それが見落とされがちなのだとしたら、もったいない話です。
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