2017年09月22日

【動画】世界と戦った日本人の歴史~幕末激動編~文久の改革 ~薩摩、起つ!」


チャンネルくららから。


wiki:文久の改革

前回、先走って書いてしまいましたが、薩摩というのはもともと水戸とも会津とも関係は良いです。
動画にもチラッと言及のあった久光の兄・斉彬が、一橋慶喜の実父・斉昭と親交があったことはすでに述べましたが……
こうして見ると、もう一方の会津が京都守護職についたのも、薩摩の肝いり(がすべてかどうかはともかく)だったことがわかります。

文久の改革で要職についたというもう一人は、越前の「松平慶永」ですが、これは「松平春嶽」と呼んだほうが通りがよいでしょうか。
何をやった人かといえば、こちらで見た安政の大獄というか将軍継嗣問題のころ、条約勅許問題で井伊直弼に対立した(無許可登城でかえってやりこめられたと倉山氏がネタにしていた)顔ぶれの一人。一橋派の盟友というところ。
ついでにいうと越前藩主ですから、大獄で処刑された橋本佐内の主君ということにもなります。

安政の大獄の犠牲者として並び称され、むしろ橋本佐内よりはるかに知名度が高いのは、長州の吉田松陰ですが……文久の改革には、長州藩は数に入っていません。
何となれば、長州はそもそもの初めから「一橋派」の数に入っていないのですね。
wiki:一橋派
一橋慶喜の実父である前水戸藩主・徳川斉昭を筆頭に、実兄の水戸藩主・徳川慶篤、越前藩主・松平慶永、尾張藩主・徳川慶勝などの親藩大名や、開明的思想で知られた外様大名である薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊信らがいた。
橋本佐内は春嶽のブレーン、慶喜擁立のために積極的に働きましたが、松陰は仕官もしていない村の私塾の先生。勝手に過激思想を唱えて勝手に幕府に目をつけられただけの一個人。藩主自身が弾圧された越前とは話が違います。
こちらでも書きましたが、昔の薩長史観が言うようには、「幕府」に「尊皇の志士」が弾圧されたという話ではなく、安政の大獄から文久の改革に至る政治の焦点は、あくまで南紀派(井伊派)・一橋派という、幕府内部の主導権争い・派閥抗争だったことが、ここでも確認できるのではないでしょうか。(弾圧された志士の側の自己認識は別にして)
つまるところ、この時点での薩摩の立場、少なくとも久光の考え方もまた、あくまで、「一橋派」を後押しすることで幕府を内部から改革し、「幕府」を以て時局に対処することであり、討幕だの何だのはサラサラ考えていなかったことになります。要は公武合体派ですね。

それが、なぜ、長州との同盟だの討幕だのという方向に舵を切るのか……

前回推測したように派閥抗争のグダグダ自体に愛想が尽きたということもあったのかもしれませんが。
もう一つの大きな転機となったものがあるとすれば、言うまでもなく、薩英戦争の衝撃でしょう。

薩英戦争というと、昔は、薩摩が一方的にボロ負けしたと言われていて、それだと、なぜその後、かえって英国と関係が深まるのか、意味がわかりませんでした。(薩摩に相当な力量がなければ、英国が相手にするわけもない)
また、井の中の蛙だった薩摩が、西洋サマの実力を知って目が覚めて、イマサラ攘夷が無理だと悟ったとも言われていましたが……この期に及んで「イマサラ」というのも、あらためて考えてみれば不自然な気もします。(薩摩が一橋派と距離が近かったというのなら、幕府の判断≒開国の合理性も、とっくの昔にそれなりに理解していてもよかったはず。そもそも琉球経由で他藩よりよほど海外事情に明るくてもおかしくないのが薩摩)
しかし、最近は薩英戦争の評価も変わってきたりもしたようですし、薩摩の認識や行動の変化・深化の理解にも、何か新しい知見が提出されているのか? 倉山史観ではどういう説明がされるのか、注目しつつ、以下、次回。というところでしょうか。