2017年09月06日

なれも昔を偲びてやなく


こちらで六士先生の話題が出ていたので。





動画概要:
1)2016/04/19 に公開
六氏先生とは、日本統治時代の台湾に設立された初めての小学校、芝山巌学堂(しざんがんがくどう)で、暴徒により殺害された日本人教師6人のことをいう。
当時、文部省の学務部長心得だった伊沢修二は、初代台湾総督に就任した樺山資紀に、「(台湾の統治政策の中で)教育こそ最優先すべき」と教育の必要性を訴え、1895年年6月、日本全国から集めた人材7名を連れて台湾へ渡り、台北北部の芝山巌恵済宮という道観の一部を借りて同年7月に芝山巌学堂という小学校を設立した。
その頃、能久親王が出征中の台南(後の台南神社境内)で薨去し(原因はマラリア)、それに伴い伊沢と1人の教師(山田耕造)は親王の棺とともに日本本土に一時帰国した。
その伊沢の帰国中に事件が起った。
日本統治以前治安が著しく悪かった台湾。1895年の暮れになるとふたたび台北の治安が悪化し、日本の統治に反対する勢力による暴動が頻発すると、周辺住人は教師たちに避難を勧めたが、彼らは「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかった。
1896年(明治29年)1月1日、6人の教師と用務員(小林清吉)が元旦の拝賀式に出席するために生徒を連れて船着場に行ったが、前日からのゲリラ騒ぎで船が無く、生徒達を帰して芝山巌に戻った。再び芝山巌を下山しようとした時、100人余りの抗日ゲリラ(日本側で言う匪賊)に遭遇した。教師たちはゲリラたちに説諭したが聞き入れられず、用務員の小林清吉を含む7人全員が惨殺された。ゲリラ達は、日本人の首を取ったら賞金が貰えるとの流言から襲撃を掛けたと言われており、6人と用務員を襲って殺害した上に着衣や所持品を奪い、更に芝山巌学堂の物品も略奪した。この事件は、台湾にいた日本人を震撼させたのみならず、日本政府にも重要視され、丁重に葬儀を行うとともに、台湾統治の強化が行われた。芝山巌学堂は3ヶ月間の授業停止の後に再開された。
彼らの台湾の教育に賭ける犠牲的精神は「芝山巌精神」と言われ、人々の間で語り継がれるようになった。

この「芝山巌精神」は当時の台湾教育者に多くの影響を与え、統治直後、総人口の0.5~0.6%だった台湾の学齢児童の就学率は1943年(昭和18年)頃には70%にもなった。また終戦時には識字率が92.5%に登り、後に台湾が経済発展をする基礎となった。

終戦後、日本色を一掃する中国国民党により、ここにあった芝山巌神社も六氏先生のお墓も破壊された。この時、神社の隣にあった恵済宮の住職は、六氏先生の墓跡から遺骨を密かに移し、無名の墓を造って祀っていた。
李登輝総統の下で民主化の動きが進むと、芝山巌学堂が開かれて100年経った1995年(平成7年)1月1日に芝山巌学堂の後身である台北市立士林国民小学の卒業生の皆さんにより、台湾の教育に命をかけた「六氏先生の墓」が再建された。そして今も地元の方々に、大切に守られている。
2016年4月 墓参をさせて頂き御霊をお慰めさせて頂きました。 Spirits up Wave Net 21 http://suwn21.com

2)2016/01/28 に公開
台湾に渡り、真の歴史を学び、日台友好の絆を深め、李登輝台湾元総統から直接リーダーシップと日本精神を学ぶ特別企画(この芝山巌にも行きます)→ http://www.realinsight.co.jp/taiwan201612/
wiki:六氏先生

動画で語り部の唐さんが引用している明治天皇の御製は、
新高の山のふもとの民草も茂りそひぬと聞くぞうれしき
当方のような最果てブログにまでたどり着くほどの人には今さら言うまでもないと思いますが、「新高山」は、台湾の最高峰、現在の「玉山」の昔の呼び名。標高は3,952m。富士山よりも高いため、日本統治時代には、日本の最高峰でもあり、「しい日本一の」ということで「新高山」。富士山の象徴性からかなり衝撃的というか印象的だったのか、「新高」はそのまま台湾の別名にもなったとか。

台湾関連の記事で見てきたとおり、日本の「植民地」統治は、「差別」の対極にある「同化」政策でした。
天皇陛下にとっては「新高の山のふもと」に住む人々も、内地の日本人と同じ「民草」「おほみたから」だったのでしょう。
その繁栄をひとしく「うれし」と思召す、畏き御製。明治の精神はここに横溢しているように思います。

それは何も主上だけの特別なお考えではなかったでしょう。
万機公論に決すべき明治の精神において、天皇は専制君主ではなく、台湾統治の政策決定にも臣下の考えが反映されていたはず。
明治天皇が範をお示しになった部分はあるにせよ、明治の精神の気高さは、有為の士には相当程度共有されていたのではないでしょうか。
むろん、六士先生などは、その代表格でしょう。

ということで、六士先生自身が残した短歌も、一首。
芝山巌学堂そのものを詠んでいるわけではなくて恐縮。他にもっと適切な歌もあるかもしれず、単ににわか知識をひけらかしたいだけだろうと言われればまことにもってその通りですが……
郭公声もあはれに聞ゆなりなれも昔を偲びてやなく
しかしこの歌、連作中の一首で、「松陰神社祭日に」と詞書があるそうです。
つまるところ、吉田松陰の生前を偲ぶ歌。
どういうことかといえば、作者の楫取道明は吉田松陰の甥。
父は松陰の友人、母は松陰の妹。一時は久坂玄瑞の養子になった時期もあったという、そんな出自の人物です。
wiki:楫取道明
「芝山巌精神」のルーツの一つは松下村塾の精神であり、すなわち明治維新の精神でもあったのかもしれません。

儒教道徳の過激性には、こちらこちらこちらなどで書いた通り、個人的に感心しない面も大きいですが……
その過激さが必要だった時代があったことも、間違いないのでしょう(幕末・明治の〝敵”はそれ以上に「過激」な侵略者だったのですから)

少なくとも、芝山巌精神が日教組の腐った精神に劣るものではないことだけは、否定のしようもない事実。
動画のように、その記憶を語り伝えてくれている人がいることは、大いにありがたく、同時に(日本側が腑抜けすぎて)申し訳ないような気もします。

こちらこちらで語られていたように、そうした「時代」を知る世代も、少しずつ失われていくのでしょう。
郭公声もあはれに聞ゆなりなれも昔を偲びてやなく
輝かしい「昔」を偲んで泣いて、語り継ぎ……そして「将来」はどうするのか?
本当に、ぎりぎりの正念場が近づいているのかもしれません。
Amazon:名歌でたどる日本の心―スサノオノミコトから昭和天皇まで
ラベル:台湾
posted by 蘇芳 at 15:51| 台湾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする