2017年09月04日

【動画】『経済で読み解く明治維新』 第4回「薩長同盟の謎~なぜ薩摩は一会桑から離反し長州を助けたのか」


チャンネルくららから。



今どきはさすがに勤皇VS佐幕などという単純な図式を頭から信じている人はあまり多くないと思いたいですが……

こちらで追記したように徳川慶喜の父親は水戸の徳川斉昭。軍艦を作れ作れと主張していたことはすでに見ましたが、水戸の殿様だけあって黄門様と同じく仏教嫌い。
wiki:徳川斉昭 ≫ 藩政改革
神道大好き皇国史観の要するに尊皇家だったようですし、

黄門様を云々するならその同時代人、会津松平家初代・保科正之も、やはりこちらこちらで追記したように、垂加神道の山崎闇斎に私淑した尊皇家であり、子孫の松平容保は京都守護職として逆賊長州から孝明天皇をお守りした尊皇の士です。

あと、知名度は一気に落ちるかもしれませんが、幕末の桑名藩主・松平定敬は、会津・松平容保の実弟です。

一会桑政権というのは、こうしたバックボーンをもった三者が提携して、逆賊・長州を討ったわけですから、つまるところ彼らこそが官軍だったわけで。尊皇以外の何物でもありません。

むしろこの時代に尊皇でなかった武士など、(それはまあ、心得違いの個々人がまったく全然一人もいなかったとまでは断言できませんが)、まず滅多に存在するものではなかったのではないでしょうか。
その意味で、勤皇VS佐幕、という色分けは最初から破綻しています。
攘夷VS開国という図式さえ、現実的に攘夷が不可能だということがわかってしまえば成立できませんし、幕末の対抗勢力というのは、あえて二項対立に整理するなら、せいぜい、尊皇討幕VS尊皇佐幕、というくらいにしか、言いようがないのかもしれません。

最後の最後、ギリギリまで尊皇の官軍だった会津が、朝敵に転落し、
最後の最後、ギリギリまで逆賊だった長州が、土壇場で官軍になりおおせた、
それこそ大きな謎ですが……
両勢力のあいだで蝙蝠のようにふるまって漁夫の利を得た、薩摩の動向こそは、鍵を握っているのかもしれません。

動画でも言及があった八月十八日の政変が起きたのは文久3年8月18日(1863年9月30日)。
有名な生麦事件はちょうどその1年前、文久2年8月21日(1862年9月14日)、これが薩英戦争に発展するわけですから、
wiki:薩英戦争  八月十八日の政変  禁門の変
よく言われるように、薩摩は、過激で単細胞な「攘夷」に無理があることは、すでに悟っていたはずでもあるでしょうか。

一方、長州は長州で、下関戦争を経験するのは、文久3年(1863年)&文久4年(1864年)、ちょうど薩摩より1年遅れで西洋列強の軍事的洗礼を受け、これがまさに八月十八日政変や禁門の変と同時多発ですから、踏んだり蹴ったりというところ。
(それだけ痛い目を見たにもかかわらず、なおまだいわゆる「正義派」と「俗論派」の抗争はつづき、功山寺挙兵を迎えるというのですから、やはりどうにも長州というのは頭のネジがどうにかなっているのかもしれません)

薩英戦争を経て、単細胞な「攘夷」に無理があることをすでに悟っていたはずでもあり、一会桑に与して官軍の地位も安泰だった薩摩が、どうしてこの流れで長州と手を結ぶのか? やはりなかなか大きな謎ではあります。
wiki:薩長同盟
あえて想像をたくましくしてみると、すでにこのとき、志士たちの争点は、開国か攘夷かではなく、(もちろん尊皇か否かでもないことは言うまでもなく)、佐幕か討幕かに移りつつあったのでしょうか。
何となれば、こちらなどで考察してきたように、地方分権が過ぎた幕藩体制では、対外戦争に勝てない、そもそも戦えない。のではないかと思いますが……単に攘夷の無理を悟ったというだけでなく、体制刷新の必要性を痛感したこともまた、外国と戦火を交えることで薩長が得た教訓だったかもしれませんから。
動画で言及されている久光と慶喜の喧嘩や、「なあなあ病」がすべての原因とは言いませんが、薩摩側が、こんな体制ではダメだという思いを、いよいよ強めるきっかけくらいにはなったのかもしれません?

薩長同盟の立役者が竜馬なのかグラバーなのか、彼らがフリーメーソン(笑)だったかは知りませんが。
誰がどんな運動をしたところで、当事者がそれを相手にしなければ話が動くはずもなく……
竜馬、龍馬と連呼する前に、薩摩の変わり身の理由は、やはり、薩摩自身の認識の変化になかに探るべきなのかもしれない気はします。

どうもあまり「経済」の話になりませんが💧
Amazon:経済で読み解く明治維新 江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟」で解明する
楽天ブックス:経済で読み解く明治維新 江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟」で解明する [ 上念司 ]