2017年09月03日

世のためのみぞうれはしき


明治以来、南朝正統論が正式に定着した。そのこと自体は良いとして。
南朝が正統だとして、それでは北朝は何なのか。偽物なのか。
そんな単純なものでもあるまいが、では何だとあらためて訊かれると、そもそも北朝について明確なイメージすら持ちえていない自分に気づく。困る。

そもそも戦後の左翼反日捏造歪曲自虐史観のなかで、南朝についてさえ、正しく語られる機会は激減した。
北朝についてはなおさら。
しかも厄介なことに、右側の史観においても、それこそは南朝正統論の権化であるからして、北朝について正しく語っている保証はない、かもしれない。
(明治政府の南朝正統論の直接のルーツになったのは、おそらく江戸時代の尊攘思想的歴史観。平たく言ってしまえば水戸の「大日本史」かとも思うが、こちらこちらで和気清麻呂や神道・仏教について見てきたように、水戸光圀の宗教観・歴史観は、かなり偏った特殊な物に違いない)

戦後の、オタクやマニアは別にして、さして歴史に詳しいわけでもない我々一般市民は、後醍醐天皇以外の南朝の天皇を、何方存じ上げているだろうか。後村上天皇を存じ上げていれば詳しいほうか。
北朝はどうか。御一方でもそらで挙げることができるか?
ちなみに戦後臣籍に降下された十一宮家(いわゆる旧皇族)と、現皇室との共通のルーツをたどれば、南朝よりはむしろ、北朝第三代崇光天皇の皇子・伏見宮栄仁親王に帰着したりもするらしいが……
wiki:旧皇族
そんな知識も、戦後の平均的小市民からは、失われて久しいかもしれない。

北朝について、もう少し知っておいてもよくはないか?
そもそも、北朝の天皇方は何を考えておいでだっただろう?
私ごときに拝察することもできようはずはないが、時の権力者の都合で立てられたり廃されたりといった不安定な皇位が、居心地のよいものだったようには思いにくい気はする。
それでもなお、皇位をお引き受けになり、両朝合一の試みがあれば、(たとえ足利の動機が不純でも)、精一杯のご尽力も惜しまれなかった。
単なる個人的な欲得の話ではない、のではないか。

なるほど水戸光圀の言う通り、南朝は正統なのかもしれない。
しかしその南朝の建武親政が破綻して支持を失ったことは事実。
謀反というのは起こす側にもリスクがある。起こさずにすむならそれに越したことはない。にもかかわらずそれが起きたという時点で、政治的経済的現実的に深刻な問題が横たわっている。南朝は正統なのだから黙って従えと口で命じるだけで解決するはずもない。行くところまで行くしかない。
その状況で、足利が北朝を擁立しようとした。光厳天皇の側から言えば、どうか天皇になってください、と、足利が頭を下げて懇願してきた。
もちろん、そんな懇願を受けたところで、所詮は足利の道具にすぎないかもしれない。傀儡にすぎないかもしれない。お飾りにすぎないかもしれない。
しかし、なお、お飾りにはお飾りなりの意味はある。
皇族の誰かが天皇となって、足利を将軍(=臣下)として認めれば、日本国の権力者は、天皇の承認・任命を必要とする。天皇なくして将軍も執権も摂政も関白もありはしない。将軍は天皇の臣下であり、日本の至高の中心はあくまで天皇である、という形式は、なお保持しつづけることができる。

南朝は元より天皇親政がタテマエ。
北朝は天皇による大権委任がタテマエ。
いずれにせよ、権力の源泉が天皇の権威であることに変わりはない。
となれば、動乱の果てに、南北どちらが勝ったとしても、日本の国柄そのものは変化しない。
南朝の天皇か、北朝の天皇か、どちらが勝つにしても、いずれ勝つのは天皇だ。

しかし、もしも、皇族方の全員が、南朝の正統を主張し、北朝の皇位に就くことをよしとせず、足利に承認を与えることを拒まれたとしたら、どうだろうか?
それで恐れ入る足利なら苦労はない。動乱は続く。
天皇の承認が得られないのなら、そんなものは要らない。万一、足利がそう判断しようものなら、それこそ、もはや、南朝VS北朝の争いではない。天皇VS足利の争いを意味する。
天皇旗の下に足利以外のすべての武将が結集して足利を討つ、さすれば必ず勝てるというなら話は簡単。しかし、先述の通り、もとより事の起こりは建武親政の破綻なのだ。そうそううまく行く保証はない。
万が一にも、「天皇の承認を必要としない政権」が、「天皇(≒日本国)」を打倒するような事態になったら、それは端的に言って新王朝の誕生であり、易姓革命ではないだろうか?

朝廷は「分裂」した。確かにそれは痛ましい。しかし、その分裂によって、より深刻な事態の出現が防がれた、という見方も、あるいはできないことはないのではないか?
北朝の高御座という針の筵にお坐りになることによって、北朝六代の天皇方は、やはり、国柄を守ってくださったのだ、と、思えなくはない気はする。

時の天皇が実際には何をお考えになったのか、もちろん、私ごとき卑賎の身にわかるはずもない。
それでも、御製を拝することはできる。
治まらぬ世のためのみぞうれはしき 身のための世はさもあらばあれ(北朝第一代・光厳天皇
北朝が正統だったかなかったか。難しいことはわからない。だが、治まらないこの世のことだけが憂わしくおもわれてならない、わが身のことなどはどうあってもよい、という御心はまちがいなく「天皇」のそれに思える。少なくとも「天皇」たるべくお努めになった方の御心に違いないのではないか。

ちなみに光厳天皇の育ての父とも申し上げるべきは第九五代花園天皇だが、その花園天皇が、後醍醐天皇の皇太子となった甥の量仁親王(光厳天皇)のためにお書きになったのが、有名な『誡太子書』。
実に光厳天皇こそは「将来の天皇」としてかねてから誰よりも研鑽をお積みになっていた方だったのかもしれない。

先述の通り、現皇室と旧皇族の共通のルーツをたどれば、南朝よりはむしろ、北朝第三代崇光天皇の皇子に帰着し、さらにその先をたどれば光厳天皇にもたどり着く。
一時的に京都御所から神器が失われていたとはいえ、それ以外、南朝に比べて北朝を軽視してよいという理由は、あまり多くはないように思う。

実際、現在の皇室では、北朝の天皇方は、皇位の順序から除外されてはいるが、その他の「扱い」は、祭祀をはじめとして、すべて歴代天皇と同じになさっている、とのこと。
もとより、南北朝は「合一」され「一統」されたのであって、どちらが勝ったの負けたのという話ではない。
南北の分裂はあくまで中世の一時的な特異の現象であって、そんな「治まらぬ世」を経てもなお、そうした「合一」が可能だったことを、ことほぐべきではないだろうか。

なお、昭和五七年三月、時の皇孫(現皇太子)浩宮徳仁親王殿下は、「歴代天皇の御事績についての御進講で最も印象に残っているのは?」という記者の質問に対するお答えのなかで、『誡太子書』に言及されたという。
 それと、これはこの次の機会にお話を伺うことになってる花園天皇という天皇がおられるんですけれども、この天皇はさきほどの九十二代伏見天皇の皇子に当たるわけですが、その天皇がその時の皇太子である量仁親王、のちに光厳天皇となる人ですが、その親王にあてて書き残したものが残っているんです。
 誡太子書(太子を誡むるの書)と呼ばれているんですが、この中で花園天皇は、まず徳を積むことの必要性、その徳を積むためには学問をしなければならないということを説いておられるわけです。その言葉にも非常に深い感銘を覚えます。
単なるトリビア、豆知識の類かもしれないが、知っておいて損をする挿話でもないと思う。

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歴代天皇で読む 日本の正史
光厳天皇: をさまらぬ世のための身ぞうれはしき (ミネルヴァ日本評伝選)
名歌でたどる日本の心―スサノオノミコトから昭和天皇まで
ラベル:室町時代 天皇
posted by 蘇芳 at 22:07| 南北朝・室町時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする