2017年08月31日

別所長治の辞世


目上に媚びて尻尾を振るなら誰でもできる。
目下のために身体を張れるか?
人間の器はむしろ後者の場合にこそ試されるのかもしれない。

天正八年(1580年)正月十七日、播磨三木城、城主長治はじめ別所一族、切腹。
羽柴秀吉による兵糧攻め、いわゆる「三木の干殺し」の果ての結末。
wiki:三木合戦
城主一族切腹の交換条件は、城兵の助命。
また、荒廃した城下の復興のため、租税の減免なども約されていたとか。
(秀吉は後に実際に城下町の復興などを履行したといわれている。のか?)

城主・別所長治の辞世は、

今はただ恨みもあらじ諸人のいのちにかはるわが身とおもへば

室町時代末期、または戦国時代。
後世のようなさかしらな「思想」としての武士道などというものはまだなかった。
あったとしても太平の世のそれとは違う、血なまぐさい実践だったのではないか。
尊皇思想も漠然としていたかもしれない、まして学者がこぞって国体を論じるような時代でもなかろう。
今はただ恨みもあらじ諸人のいのちにかはるわが身とおもへば
ここに「国体」の言葉はない。「天皇」の言葉もない。「大君」はもちろん、「主君」すら登場しない。
長治はただ「諸人」のために死ぬと言っている。

「諸人」とは誰か。

直接的には部下の城兵。だが、城下の復興を条件にしている以上、城下に暮らしていた住民・一般庶民のことも含んでいたかもしれない。いずれにしろ城主から見れば目下の存在。
城兵には忠義者もいただろう、だが、中にはロクデナシもいたかもしれない。兵糧攻めの最中。普段は立派でも理性を失う者もいる。
共に戦った城兵どころか、まして「城下」の民間人となれば、根本的に価値観が違うかもしれない。とっくに避難もしていただろう。復興後にのこのこ帰ってきて別所の悪口のひとつも言ったかもしれない。豊かな者、貧しい者、教養のある者、ない者、正直者、嘘つき、ヒネクレモノ。どんな人間がいてもおかしくないが、少なくとも全員が聖人君子であるはずはない。
民百姓、民衆、大衆、人民、おおみたから、きれいな言葉はいくらもあるが、ミモフタもない言い方をするなら、それらは所詮、多くの場合「有象無象」のことでもある。

「聖人君子」のために死ぬ、身を捧げるというならむしろ容易。
しかし、「有象無象」のために死ぬのは容易だろうか?

下から上を仰ぎ見る忠道は、精神的には、依存の道でもある。
では逆に、上として下をいつくしむ、上に立つ者として下々に対して責任を負うという場合は?
それは何の道か?

西洋にも「ノブリスオブリージュ」=高貴なる者の義務という言葉があるという。
それは誰に対する義務か? 西洋なら、つまり「神」に対してか?
しかし、具体的な実践としては、やはり目下の「諸人」に対する責任を果たすところに帰するしかなかろう。
つまるところ高貴な者は、低俗なものに対して責任を負うからこそ、高貴なのではないか。
今はただ恨みもあらじ諸人のいのちにかはるわが身とおもへば
ここに「国体」の言葉はない。天皇陛下万歳とも言っていない。「大君」はもちろん、「主君」すら登場しない。
しかしその「こともな」く詠われた言葉の中にこそ、こちらで読んだような意味での「国のすがた」が「にほふ」ているのではないか。

話は飛躍するようだが、占領者・マッカーサーの前に御立ちになった昭和天皇が何を仰せになったのか、私たちは知っている。
そのときの陛下もまた「わが身」を「諸人のいのちにか」えようとしてくださった。
身はいかになるともいくさとどめけりただたおれゆく民をおもひて
爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも
たかが戦国武将ごときを聖上陛下と並び称するのはおこがましいかもしれない。
しかし精神を高貴たらしめる源泉には、身分の上下を超えて、通底するものはあるのではないか。

部下を死に追いやりながらのうのうと生きながらえた軍人もいれば、
敗戦と共に自決した軍人も、最後の最後に自ら特攻に飛び立った指揮官もいる。

精神の貴賤は「有象無象」に対する態度にこそ表れる、のかもしれない。
そんなことを思った。
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追記:
一方で「武士道」だの「サムライ」だのを声高に連呼する国士様はいまやネットの巷にあふれているが、
彼らの「有象無象」に対する態度は、果たして、どんなものだろうか?
ラベル:戦国
posted by 蘇芳 at 21:27| 戦国~織豊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする