2017年08月28日

「米ドルベースのGNPの戦前のピークは、昭和一一年」


こちらのシリーズで「ポイントオブノーリターン」と呼ばれていた二二六事件。
こちらで取りあげられていた山口氏の著書や、江崎氏のこちらのシリーズでも、共産主義の謀略と受容・浸透の観点からくりかえし言及されています。それだけ重要な事件ということでしょう。

事件の背景には世界恐慌から昭和恐慌にいたる、破滅的な経済状況があり、その結果の庶民の困窮があると言われています。
特に農村出身の兵卒たちの家族はそれはもう悲惨な目にあっていた。
エリート軍人でありインテリでもある青年将校たちは、その窮状を救済しなければならない、と、使命感にかられた、という……「叛徒」たちの動機の純粋さもしばしば語られるところです。

問題はその「手段」でしょう。
金融恐慌や「不適切な経済政策」によって引き起こされた不況なら、「適切な経済政策」によって解決できると考えるのが、道理というものに思えます。
しかし、当時のエリートたちはそうは考えなかった。考えることができなかった、と、江崎道朗の「コミンテルンの謀略と日本の敗戦 (PHP新書)」などは語ります。
共産主義思想の浸透によって、インテリの思考はその教義のパターンにはめ込まれており、そのカルト的教義においては、資本主義は必然的に破綻し、人類は共産主義社会の実現によってしか救済されることはない、という運命決定論が説かれていました。
目の前の不況と、一方で徹底的な情報統制とプロパガンダによって捏造されたバラ色のソ連経済(という嘘)のイメージは、資本主義の終焉と共産主義革命の歴史的必然の証拠のように見えたことでしょう。

経済恐慌を経済政策によって解決するという本道は、叛徒の選択するところとはなりませんでした。
日本をダメにする「わるいやつ」をやっつければ日本は救われるという……安直な勧善懲悪の浪花節的テロという邪道に走ったのが、かの「純粋」な叛徒たちだった。
一部のある種の「愛国者」には不満かもしれませんが、上記の視点からは、どうもそういうことになるようです。

そうして、彼らが殺害を企てた「わるいやつ」の一人が、よりにもよって蔵相・高橋是清だったことは、こちらのシリーズに登場した江崎道朗や上念司、倉山満などに言わせると、本当に、救いようもない愚行だったようです。
なんとなれば、上の三氏によれば、「適切な経済政策」を実施してその成果を上げつつあった(現実的に日本の困窮を救済しはじめていた)ほとんど唯一の立役者こそ、高橋是清だったということになるそうですから。
 デフレ政策を続けて昭和恐慌をもたらした浜口首相が狙撃されたのは一九三〇年(昭和五年)十一月だが、体調回復せず翌一九三一年四月に首相を辞任(同年八月に死去)。後継として民政党の若槻礼次郎内閣が組閣されるが、満州事変(一九三一年九月~)への対応のまずさもあって、一九三一年十二月に退陣。政友会の犬養毅内閣に代わり、蔵相には再び高橋是清が就任した。
 高橋是清は直ちに金輸出を停止し、リフレ政策(デフレを脱するために必要な範囲でインフレにする政策)に舵を切り、日本経済は回復基調に乗るが、その結果が現れる前の一九三一年五月十五日、五・一五事件において犬養首相が暗殺されてしまう。
 犬養首相暗殺後も蔵相に留任した高橋は一九三二年(昭和七年)に日銀引受国債の発行に踏み切り、市中に大量の通貨を供給するこの金融緩和政策によって日本はようやく本格的に不況を脱しはじめるのである。
 高橋是清が蔵相を務めた一九三一年(昭和六年)から一九三六年(昭和十一年)までの高橋財政期には経済回復が順調に進んだ。しかし、だからといって、高橋のようなリフレ政策が広く理解され、支持されたかというと、決してそうではない。
 高橋是清の経済政策の「真価」がいかに理解されていなかったかは、一九三六年(昭和十一年)の二・二六事件において、よりによって「リフレ政策で景気を回復しようとした」高杯是清が暗殺され、その後に大蔵大臣に就任した馬場鍈一が、増税によって再び経済をボロボロにしたことからも理解されよう。不況に苦しむ国民を助けるために決起した青年将校はよりによって、景気を回復させつつあった高橋是清を殺してしまったのだ。

しかもなお、叛徒が殺したのは(殺そうとしたのは)高橋一人だけではありません。
他の顔ぶれも、その「人選」は滅茶苦茶でした。
受け売りばかりで恐縮ですが別宮暖朗「帝国陸軍の栄光と転落 (文春新書)」には、以下の記述があります。
ターゲットとなった渡部錠太郎(教育総監)と鈴木貫太郎(侍従長)はいずれも日露戦争の英雄であった。渡部は歩三十六中隊長として開戦劈頭に重傷を負い、鈴木は駆逐隊司令として戦艦二隻を撃沈した。
 どこの国の軍人が、財閥の横暴や農村の疲弊といった抽象的な題目で、自分達の理想とせねばならない戦争ヒーローを殺傷するのか。この二人の軍人こそが帝国陸海軍の栄光を具現していたのである。
なぜそうなったのか。
江崎氏はもちろん、別宮氏も、やはり、共産主義の影響に言及します。
大正一四年の治安維持法公布にみられるように、警察による社会主義者、共産主義者への取締りは猖獗を極めた。ただし、弾圧の対象は民間人が中心であり、反政府運動取締りの一環であった。現在と比較にならないくらい、社会主義思想の普及はめざましく、影響も広範囲に及んでいた。
 各種軍学校でも社会主義・共産主義という名称でなく、統制経済なり国家総動員体制なりという用語をつかいさえすれば、全く警戒感なく受け入れられた。青年将校が革新を叫び、革命思想やその暴力肯定主義に染まったのも、また当然であった。
 陸軍では軍事よりも政治、保守よりも革命、自由主義より社会主義という風潮が主流となっていた。山縣有朋が軍服を着て再度戦いたいとまで敵視した社会主義者が、いまや陸軍省と参謀本部の主人公であった。
彼らが自覚的な売国奴だったとまでは言いません。自称愛国者であり、売国奴というよりは役に立つバカであり、主観的には「純粋」に国を憂えていた可能性までは、否定することはないでしょう。

しかし、だから何だというのか?

事実において、彼らは、高橋是清を殺すことで日本経済を殺し、渡部錠太郎を殺し、鈴木貫太郎を殺そうとすることで帝国陸軍の名誉を踏みにじったのでしょう。今さら、勘違いでした、ではすみません。
高橋の死後、経済が再び悪化したのは上の江崎氏の引用にもある通り。
また、別宮暖朗の前掲書にも、
 日本は戦後いきなり高度経済成長を実現したのではない。戦前にも高度成長を遂げていた。大正五年から昭和一一年の二十年間で、一人当たりGNPを年平均八・九%も伸ばしている。これは昭和二五年から四五年の二十年間の一〇・二%に次ぐ成績である。
 一九二九年(昭和四年)の世界恐慌のダメージからも日本はいち早く立ち直った。米ドルベースのGNPの戦前のピークは、昭和一一年であった。翌昭和一二年成立の近衛内閣によって国家総動員法が昭和一三年に制定された。このころ昭和一二年から日本経済は低迷に転じた。一人当たりGNPが昭和一一年の水準に戻ったのは戦後の昭和三二年であった。昭和三一年の経済白書は「もはや戦後ではない」と叫んだ。昭和一二年から昭和三一年はまさに「失われた二十年」であった。統制経済すなわち社会主義経済こそがこの低迷をもたらしたのである。
 統制経済は景気対策または経済成長に何の役にも立たなかった。それでは太平洋戦争に統制経済が役立ったかといえば、その正反対であった。
と、当時の経済状況が概括されており、「米ドルベースのGNPの戦前のピーク」であるという「昭和一一年」は、まさに二二六事件の年。
翌年以降日本経済が「低迷に転じ」たというのがすなわち高橋の死によって、とすれば、江崎氏の認識とも平仄は合います。

そして二二六事件は皇道派の失脚と統制派の台頭をもたらし、その統制派というのが、
「一君万民の社会主義天皇制を念願したことは、意識すると否とに拘らず明白な事実である。国家統制経済を採用し、農魚山村経済に力を注ぎ、その疲弊を救う」(『別冊知性』昭和三一年一二月号 河出書房)
という社会主義者だったことはこちらこちらこちらなどでくりかえし言及してきたとおりです。

その日を境に実現した「統制経済」が、別宮氏の言う通り、「景気対策または経済成長に何の役にも立た」なかったうえ、「太平洋戦争に統制経済が役立ったかといえば、その正反対」だったのだとすれば、いったい、二二六事件とは何だったのか。

高橋を殺し、渡部を殺し、鈴木や岡田を殺そうとして、成し遂げたものは暗黒の社会主義体制。
これでは昭和天皇が激怒して討伐をお命じになるのも、むしろ当然ではないでしょうか。
まして、この時に一命をとりとめた鈴木貫太郎が、後に終戦内閣を組閣し、御聖断を仰ぐのですから……
叛徒たちが、もしも首尾よく鈴木暗殺にまで成功していたらと思えば、結果論ではありますが、なおさらその罪は重いといわざるをえないかもしれません。

にもかかわらず、この二二六事件の「叛徒」、言ってしまえば殺人事件の加害者たちが、戦前はもちろん、価値観が一変したといわれる戦後においてもなお、右からも左からも、ロマンチックでセンチメンタルな支持を一定数集めつづけているのは、なかなかに不思議な光景であるように思えます。
 そのとき陛下はおん年三十五におわしました。
 陛下は老臣の皺多き理性と、つつましき狡智に取り巻かれていらせられた。かつて若きもののふが玉体を護って流す鮮烈な血潮を見そなわしたことはなかった。
 民の貧しさ、民の苦しみを竜顔の前より遠ざけ、陛下を十重二十重に、あれらの者たち、すなわち奸臣佞臣、あるいは保身にだけ身をやつした者、不退転の決意を持たずに事に当った者、臆病者にしてそれと知らずに破局への道をひらいた者、あるいは冷血無残な陰謀家、野心家が取り囲み奉っていた。そして陛下は、霜落つる兵舎の片かげに息吹く若き名もなき者の誠忠の吐息を見そなわしたことはなかった。
 われらはその怪獣どもを仆して、陛下をお救い申し上げたい、と切に念じた。そのときこそ、民も途端の苦しみから救われ、兵は後顧の憂いなく、勇んで国の護りに就くことができるであろう。
 われらはついに義兵を挙げた。思いみよ、その雪の日に、わが歴史の奥底にひそむ維新の力は、大君と民草、神と人、十善の御位にましますおん方と忠勇の若者との、稀なる対話を用意していた。
三島由紀夫「英霊の聲
これを所詮は「文学」と聞き流すか、またはせいぜい「病理」の解剖としての興味を抱く程度ならまだしも、大真面目に真に受けて、烈士烈士と崇拝するほどのものなのか……
ここでいう「奸臣佞臣」「怪獣ども」が、日本の景気を回復させ、「米ドルベースのGNPの戦前のピーク」を成し遂げた高橋是清であり、陛下に「頼む」とまで望まれて組閣して大戦の幕を引いた鈴木貫太郎であり……
ここでいう「義兵」「いと醇乎なる荒魂」こそが、彼らを殺傷した(しようとした)〝社会主義”だという事実を踏まえたうえで、あらためて考えてみるのもよいのかもしれません。
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三島由紀夫「愛国心といふ言葉があまり好きではない」
【三島事件】もし三島由紀夫の自衛隊クーデターが成功していたら【楯の会】
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三島由紀夫ってどの辺が評価されてるの?

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posted by 蘇芳 at 22:44|  L 大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする