2017年08月21日

【動画】世界と戦った日本人の近現代史 第12回「国民国家が世界を救う!~1848年革命の 衝撃」


チャンネルくららから。



こちらで書いたように「八紘一宇」とは国民国家建設の宣言に等しいのではないかと思います。
神武紀にはさまざまな地方豪族が登場し、あるいは服属し、あるいは征服されます。
また、尻尾が生えているだの手足が長いだのさまざまな種族も登場し、進んで天皇にしたがいます。
それらさまざまな人々(八紘)を一つの家族(一宇)のようにするとは、つまるところ、種族部族氏族はいかように違っても同じ一つの「国民」となれ、ということではないでしょうか。

そして、また、記紀の編纂が命じられた天武天皇の御代こそは、こちらなどで見た軍事的危機を背景に、国家・国民の結束を高めなければならない、現実的要請に満ちた時代でした。
文書史料における「愛国」の最も古い用例が持統天皇の御代であることは、こちらで見た通りです。

つまるところ、日本こそはその始まりの瞬間から国民国家の理念とともにスタートした国家であり、現存する世界最古の王朝とは、現存する世界最古の「国民国家」の謂いでもあるのではないでしょうか。
そして、それが「律」や「令」を整備する「法治国家」として発展し、やがて十七条の「憲法」すら定められたということは、現存する世界最古の「立憲君主国家」とさえ呼んで呼べないことはないようにも思えます。

そのような輝かしい「国民国家」を一生懸命必死になって否定しなければならない「歴史学」とはいったい何か?
お里が知れるとは、まさにこのことではないでしょうか。
 議会制民主主義が行なわれている国では、議会は選挙で民意を反映させる民主主義の根幹だ。だが、共産党にとっては議会の位置づけはまったく違う。ブルジョワジーによる抑圧と従属の道具にすぎない。だから、破壊すべき対象なのである。
 コミンテルンにとって、そもそも議会は権力闘争の中心の場ではない。議会で多数の議席を得て政権をとることなど、まったく目的としてはいなかった。
 議会は、あくまで便宜的に、自分たちの都合のよいように「使う」べきものであって、革命はあくまで議会の外の大衆行動によって行なわれるものなのだ。
 現代日本の政治でも、野党の民進党や共産党の政治家たちが、国会での審議を妨害する一方で、国会の外で行われる抗議デモや集会に参加し、政府批判を繰り返すのは、そもそも、議会制民主主義を守るつもりがないからなのだ。
 彼らは、自覚しているかどうかは別として、選挙で選ばれた国会議員による議会制民主主義を認めるつもりがない。それどころか、議会制民主主義を破壊しようとしているのだ。
太古の昔から「国民国家」であり、飛鳥時代・奈良時代から「法治国家」であり「立憲国家」でさえあった。それが日本の国柄であり、その国柄の提唱者・体現者こそ天皇であらせられた。その国柄を理論的に洗練させ、「近代的」にブラッシュアップした帰結こそが、明治新政府の提唱した「立憲君主国家」であり「議会制民主主義」だった。
とするならば……
「国民国家」の否定とは、「日本」の「国柄」の否定であると同時に、「法治主義」の否定であり、「立憲主義」の否定であり、「議会制民主主義」の否定であり、要するに、文化・文明の否定以外の何物でもないのではないでしょうか。
私たちが守らなければならない文化・文明の価値をしっかりと自覚するとともに、その価値の否定者たる「敵」の存在をもぬかりなく直視しなければならないように思います。