チャンネルくららから。
wiki:ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)
こちらやこちらで、パーマストンとアヘン戦争、その前に米国か~と予想しておきましたが。大体その通りの流れですね。倉山氏の著書を読めばこの時代について書いてあるのはだいたいいつもこのトピックかと(まあ、本を書くたびに歴史の内容がころころ変わる方がオカシイので、ワンパターンであるほうが正しいのでしょうが)。
状況としてはこちらで書いたような話(「覇権国」英国vs「挑戦者」露西亜という対立を背景にした「小国」日米の出会い)へと収束していく、わけで。
したがって動画の内容については、足踏みというか特にコメントするほどのこともなく……
Amazon:嘘だらけの日米近現代史 (扶桑社新書)あたりで復習しておくのもいいかもくらいですが。
同時代の日本の事件としたは大塩平八郎の乱がこのころなのですね。。。
wiki:大塩平八郎の乱 大塩平八郎時期としては、この動画シリーズの初回を飾った光格天皇がすでに譲位あそばされ上皇となっておいでだったころ。仁孝天皇の御代でしょうか。
光格天皇については、すでに複数の記事で何度も触れていますが……
その御代に天明の大飢饉が発生、御所千度参りが起きたことはこちらなどで言及しました。
それが皇室の権威が回復される大きなエポックになったわけですが……
その記憶もまだ新しい仁孝天皇の御代に「再来」したのが天保の大飢饉。
その飢饉を背景にするのが大塩の乱。ですから、二度目の飢饉における、二度目の人災(幕府の無為)は、再び、国民が朝廷を仰ぎ見る契機となりえたかもしれません。
儒学者・陽明学者、二万冊の蔵書を持っていたという大塩平八郎なら、なおさらでしょう。
大塩平八郎の檄文を読むと、
・大塩平八郎の檄文という一節が目につきます。
・檄文(大塩平八郎)必一揆蜂起の企とは違ひ、追々年貢諸役に至る迄軽くいたし、都て中興
神武帝御政道之通、寛仁大度の取扱にいたし遣、年来驕奢淫逸の風俗を一洗相改、質素に立戻り、四海万民、いつ迄も、
天恩を難有存、父母妻子をも養、生前之地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ遺し、尭舜、
天照皇太神之時代に復し難くとも、中興の気象に、恢復とて、立戻し可申候。
人の世に神代の再現は不可能でも、せめて人皇初代神武天皇の御代には立ち戻り、天下万民をいつくしむ寛仁大度の政道を実現すべし、とでも言えばよいのでしょうか。もっと短く一言でまとめるなら、「神武創業の昔に帰れ」。まるで明治政府のスローガンのようです。
ちなみに放置されあれ果てていたご歴代天皇陵の捜索・治定・修復が行われたのも、江戸時代。
その作業が特に活発化したのも、幕末のちょうどこの時期だったようで……
当の神武天皇陵の修復がついに実現したのも、仁孝天皇の次の孝明天皇の御代。
大塩平八郎の乱の前後。日本の思想状況は、まさしく、神武天皇の御名を以て幕政を批判することが大きなインパクトを持ちうる時代へと、突入しつつあったのかもしれません。
(ややシニカルな言い方をすれば、日本人が「天皇」という御存在を「思いだした」時代、でしょうか)
実際、「尊皇」による「幕政批判」は、大塩の乱の後も、数々の志士たちによってくりかえされていきます。
つまるところ大塩の乱は、単に表面的・時系列的な意味だけではなく、思想的にも、幕末動乱の先駆になった大事件だったのかもしれません。
大塩の乱当時の日本(アヘン戦争の3年前)は、(動画でも言われているように)、まだパーマストンの存在にすら気づいていなかった、当然、その脅威に対処しようという動機もなかったはずですが……
国外の状況とは無関係に、国内事情が、すでに自律的に変革を準備すべく動きだしていた。アヘン戦争のインパクトやペリーの来航は、変革を加速することにはなったかもしれないが、変革(少なくともその胎動)自体はすでに始まっていた。のだとすれば……よくできた偶然というか何というか。むしろできすぎた偶然というべきでしょうか。
国内の自律的な運動が、期せずして、国際状況への対応にも適していたのだとすれば、それもまた、幕末日本を救った僥倖の一つでもあったのかもしれません。
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