2017年08月04日

【動画】世界と戦った日本人の近現代史 第2回「鎖国の真実~ 徳川300年の平和ボケという嘘」


チャンネルくららから。



この時代についてはこちらこちらなどでも言及がありました。
フェートン号のはるか以前、いわゆる「鎖国」が始まってまもないころにも、同じ英国船のリターン号が、通商の再開を要求するため来日しています。が、後者については、幕府はたやすく(?)これを追い返しています。
前後の事件の顛末を見るに、彼我の力関係の変化が垣間見えるようにも思えなくはありません。

倉山氏いわく、本当に平和ボケしていたのは50年だけ、だそうですが……
結局のところ、かつてできていたことが、いつのまにかできなくなったのだとすれば、期間の長短よりは、その影響の大小のほうが問題であるようにも思えます。

わずか50年の例外を除いて、幕府は遺漏なく国防にこれ勤めていた。にもかかわらず、いつのまにか、幕府では対処できない国際情勢が醸成され、侵略と植民地化の危機に瀕していた。その危機に対処するためには、未曽有の内戦を伴う「維新」が必要だった、のだとすれば、それこそ痛恨事ではないでしょうか。
(最近では、維新など必要なかった、薩長はテロリストにすぎない、すべて幕府にまかせておいたほうがよかったのだ、などと主張する向きもなくはないようですが……何だかんだで倉山史観はその主張には同意していなかったはず。「徳川慶喜の幕末世界史」のシリーズ動画など参照)

わずか50年の平和ボケの「ツケ」が幕末の動乱だったとするのなら……
70年分の「ツケ」はいったいどれほどのものになるのでしょうね?

もっとも、江戸幕府の海防・国防には、こちらでも書いたような幕藩体制ならではの弱点もあったはずで……
松尾晋一「江戸幕府と国防 (講談社選書メチエ)」によれば、正保四年(1647)のポルトガル船来訪の折には、幕府・長崎奉行の判断をよそに、周辺諸大名がそれぞれに過剰な兵を動員、わずか一隻のポルトガル船に対して、その総数は5万にも達したとか。
その諸大名も、別に、神国日本防衛の赤誠に燃えていたというわけではなく、近隣諸藩の動向をチラチラ窺いながらアチラがそれだけ出すならコチラもこれだけ出さねばメンツが立たぬと……おおむね内向きの横並び意識で牽制しあった結果だったとか。
ウソかマコトか専門家でもないので知りませんが……
結果、オランダ商館の失笑を買ったとも、前掲書には書かれていたようです。

もちろん、その後、幕府もこのときの教訓を活かして、異国船への対処について体制を仕切り直していくわけですが……最初の出発点がそういうことなら、結局のところ、その仕切り直しの努力は、内部の統制をこそ志向するものであって、外敵の脅威から国家国民を防衛するという意識に直結するものではなかったのかもしれません。

江戸時代に日本との交易が許された国々には清も含まれていますが、支那人あるところに犯罪あり、は、今も昔も不変の真理。しかしながら、幕府はある時期まではそういった「唐人」犯罪に対して宥和政策を講じていたとのこと。すなわち、唐人が罪を犯しても、「異国人であるからして」との理由で、日本人のようには裁かれなかったとか。これこそまさに江戸時代の日本人差別です。支那人が増長しないわけがありません。犯罪はいよいよ増加し、18世紀に至って、ついに堪忍袋の緒を切ったのが新井白石だったそうですが……裏を返せば、それまではひたすら延々と唐人犯罪特権・日本人差別を認め続けてきたのが幕府でもあったわけです。
f**t note:18世紀初頭における唐船対策の転換点:松尾晋一「幕府対外政策における「唐人」「唐船」問題の推移」(2010)
まあ、最終的に強硬策に転換したというだけ、戦後日本よりはマシかもしれませんが……

「日本スゴイ」もいいですが、幕府の「限界」もやはりしっかり認識しておいて悪いことはないでしょう。
(最終的に維新によって否定された体制には違いないのですから)

結局のところ、江戸の太平が守られた最大の理由の一つは、侵略者の本拠地である欧州から「遠かった」ことであって、すべてが幕府の国防努力の結果だったのかといえば、議論の余地も大いにあるような気はします。
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