2017年07月15日

没義道者が道を説く


教科書的な説明では、儒教とは下は上に従えという思想だから支配者・権力者に都合が良かったのだ、という説明がされています。受験用の教材などはほとんどそれではないかと。


しかし、こちらこちらこちらなどで未整理なまま書き散らしてきたように、水戸学や垂加神道や頼山陽や山鹿素行などなど、国学よりもむしろ儒者の尊皇思想こそが過激化し幕末維新の原動力になったのだとしたら、徳川の推奨した朱子学のどこがどう「支配者」にとって好都合だったのか?

水戸が徳川御三家なのはいうまでもありませんが、何度か述べてきたように、山崎闇斎に私淑した同時代人・保科正之もまた三代将軍家光の弟で、会津藩主=会津松平家の初代です。
つまるところ、討幕のルーツは水戸と会津と朱子学だというのなら、徳川もずいぶん間抜けだということになりかねません。
薩長の登場を待つまでもなく、徳川自身が、自壊の種子を自ら内包していたのではないか?と。

しかしこの間抜けさは、何も徳川にかぎったことではなく、儒学の本質には、そもそも、人を欺く罠が隠されているのかもしれません。

そもそも国学による儒学批判の要諦は、それが嘘つきどもの詭弁にすぎないという点です。
儒学を生んだのは易姓革命の大陸です。口にご立派な道徳を説きながら、やっていることは嘘八百・裏切り・謀叛・主君殺し・下剋上。没義道の権化が道を説くとは片腹痛い。
しかしながら、無道・覇道の正当化のためにこそ、黒を白と言いくるめるペテンが必要になり、事実の改竄が随伴するのも見やすい道理。つまるところ声高に道を説くのは詐欺師の常。道の実践者はかえってことさらに道を説くことがない。それがかの大陸と本朝の違いであると云々。

下は上に従えと。
では、誰が下で誰が上なのか。
革命常なき支那大陸でそれを決めるのは、所詮、サル山のボス猿を決めるのと同じ論理です。
道を説きながら俺が上だオマエが下だと果てしないマウンティング合戦をくりひろげるのだからご苦労なことです。

それに対してわが朝には万世一系の皇室があり、上下の究極については争う余地なく明らかであったことが、社会の安定に大いに寄与したことは、大方の愛国者が主張する通りに違いありません。

しかし、そもそも、上下というのは相対的な観念。上には上があり、下には下がある。
究極の「上」が明確だとして、その下の下々の上下関係は誰がどうやって決めるのか。
朝廷の勢威が確かなうちは、朝廷がそれを決めればよかったのかもしれませんが……
残念ながら、朝廷の存在がしばしば蔑ろにされてきたのも事実。
権威と権力が分離し、朝廷の与える位階が、それだけでは現実的な実効性を持ちえなくなったとき、下々の者どもの序列を現実的に決定するものは、それでは何か?
源平合戦、南北朝、戦国時代。
所詮は、サル山のボス猿を決める論理でしかないのではないでしょうか。
そして、こちらなど鎌倉幕府の成立について縷々考察したように、公地公民制が崩壊し、事実上の〝領地領民”制へと移行するとき、乱立するそれら私兵集団を力で統合した、まさに「サル山のボス猿」こそが、征夷大将軍ではなかったでしょうか。

そうして内に内乱の種を宿し、内部の統制のためにこそ大方の努力を傾注しなければならない幕府というシステムは、こちらなどで考察したように、国が一丸とならなければならない対外的危機の時代にこそ、ボス猿の弱体化を露呈させ、挑戦者の出現をそそのかす、という、脆弱性をはらんでいるのではないでしょうか。

そして、新たなボス猿候補が実力を以て登場してきたとき、「下」がその新たな「上」に従うことを否定する、どのような論理が、儒学にはありうるのでしょうか?
古い「上」に従う者と、新たな「上」に従う者、究極において両者は、腕力によって勝敗を決するしかないのではないでしょうか。
結局のところ、儒教とは、すでに確立ずみの「上」への従属を説くのみであり、「上」の成立過程に関してはそもそも無力のほっかむりを決め込むしかない思想ではないのか?
そのような思想は、事後的に勝馬に乗ることはできても、動乱を未然に防ぐことはできない。どころか、「上」のために戦え、と、新旧両方の「下」をそそのかし、火に油をそそぐだけではないのか?

道を説きながら没義道をそそのかし、政権の安定に寄与すると吹かしながら政権の転覆を準備する、儒教とはそのようなものなのかもしれません。
とすれば、幕末の志士を理想化する人々が、しばしば過激化し、暴力革命に誘惑されてきた近代の歴史にも、やはり、幕末の志士の行動原理としての儒教的な何かが、ひそかにかかわりつづけているのでしょうか。

日本における究極の「上」がどなたであるかを明らかにした、それは尊皇思想の大きな功績に違いないでしょう。サル山でどのような攻防が行われていたとしても、山をはるかに見下ろす雲の上には、天皇陛下がおわします。なればこそ、維新はあくまで維新であって、決して革命(王朝交代)にはなりえない。皇室の存在こそは日本に究極の安定性・一体性をもたらす生命線です。

しかし、近代においてはどうか?
皇室こそが日本を安定させる秘鍵なら、日本を滅ぼしたい者はその皇室をさえ攻撃すればよい。
その弱点もまた同時に明らかにされてしまったのではないでしょうか。

上には上があり下には下がある、
上下は相対的な観念である、
ならば……
天皇こそが究極の「上」である、という、その絶対性を守ることはいつまで可能なのか?

最盛期には勅使を下座に置くことさえできていたはずの徳川でさえ、皇室こそが「上」であり、徳川などは皇室の「下」だ、と、当の儒教によって足元をすくわれたのです。
もしも万一、皇室などは「上」ではないニダアルと吹き込もうとする勢力が、思想・言論・メディアを牛耳り、発言力・影響力を強めれば、儒教やそれに類する「道徳」は容易にその走狗と化しはしないのでしょうか?
保守速報:民進党・辻元清美「天皇とあの一族の気持ち悪さ。ああいう一族が近くで空気を吸いたくない。天皇制を廃止しろ」
現存する世界最古の皇統を護持しえた日本は運がよかったかもしれません。あるいは皇祖皇宗・天神地祇の御加護があったのかもしれません。が、その同時代には、世界中で王室や皇室が次々転覆されたのです。そこで叫ばれたスローガンは、しばしば「人民」という名の「神」であり、つまるところは「カミ」≒「上」ではなかったでしょうか。日本だけが幸運な結果に胡坐をかいて油断していて良いというものでもないでしょう。

実際、日本においてすら、戦後レジームはいうまでもなく、明治立憲体制を転覆せんと企てた赤い愛国者たちは、戦前からしばしば志士気取りのテロルに走っていたのではなかったでしょうか。
彼らを突き動かした情念は、口に尊皇を説きながら不敬をそそのかし、皇室の弥栄を祈ると吹かしながら皇統の断絶を準備する、そのような〝何か”と黙契を交わしてはいなかったか?
「愛国者」こそしっかり考えておく必要があるような気もするのです。

二二六の青年将校は最終的には昭和天皇の逆鱗に触れ、三島の「英霊の声」の一番の理解者は「殺したがるバカ」でおなじみのあの御婆様でした。
瀬戸内寂聴は、最後の〈何者かのあいまいな顔に変貌〉した川崎青年の死顔の、その変容した顔が天皇の顔だといち早く気づき、「三島さんが命を賭けた」と思い手紙を送ったと述べている[24]。すると三島から、〈ラストの数行に、鍵が隠されてあるのですが、御炯眼に見破られたやうです。能と仰言るのも、修羅物を狙つたわけです。小さな作品ですが、これを書いたので、戦後二十年生きのびた申訳が少しは立つたやうな気がします〉という返事があった[24][25]
wiki:英霊の声>作品研究・解釈
ネットスラング的に「どうしてこうなった」とAAでも貼りたいようなこのねじれが、すでにとうの昔に解消されているというのならよいのですが……

NAVERまとめ:「バカは私」…寂聴さん謝罪発言がまた波紋を呼んでいる
もえるあじあ(・∀・):【尼僧w】瀬戸内寂聴さん「”日本死ね”は名文」
posted by 蘇芳 at 15:57| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする