2017年07月07日

和気氏と八幡神


見落としているかもしれませんが、道鏡事件についてのまとまった記述は、『続日本紀』『日本後紀』の両方で通算三回くらいはあったかと思います。
一つは、『続日本紀』本文、通史として。
二度目は、『日本後紀』巻第八、延暦十八年、和気清麻呂の薨伝において。
そして三度目が、『日本後紀』巻第三十二、天長元年、清麻呂の息子(真綱・仲世)たちによる奏上のなかでの言及です。
いずれも道鏡のたくらみを清麻呂が打破するという大筋は同じですが、細部のニュアンスには微妙な差異・変化が見られるようで……歴史の改竄といいますか、記憶の上書き保存がくりかえされる、そのログを垣間見ているような気がしてきます。

三つの記述を通して、最も大きく変化したものの一つは、言うまでもなく、称徳天皇の描写でしょう。

最初の『続日本紀』の記述においては、称徳天皇の次のような詔が収録されています、
天皇がお言葉として仰せられるには、いったい臣下というものは、君主に従い、清く貞しく明るい心をもって君主を助け守り、また君主に対しては無礼な面持ちをせず、陰で誹らず、よこしまで偽ったり、へつらい曲がった心を持ったりせずに仕えるべきものである。それなのに、従五位下・因幡員外介の輔治能真人清麻呂は、その姉法均と悪くよこしまな偽りの話を作り、法均は朕に向かってその偽りを奏上した。その様子を見ると、顔色・表情といい、口に出す言葉といい、明らかに自分が作ったことを大神のお言葉と偽って言っていたと知った。問い詰めたところ、やはり朕が思ったとおり大神のお言葉ではないと断定できたのである。それで国法にしたがって両人を退けるものである、と仰せになるお言葉をみな承れと申し告げる。(宇治谷孟訳)
称徳天皇は、清麻呂の持ち帰ったいわゆる真の神託をこそ「偽り」であり、「大神のお言葉ではないと断定」して、激怒しておいでです。
称徳天皇のスタンスは、まちがいなく、道鏡一味の側にありました。

もちろん、この詔自体が、道鏡たちによる作文であり、天皇の御真意ではなかった、と、強弁することもできるかもしれません。
が、強弁はどこまで行っても強弁にすぎないでしょう。
事件の顛末からすれば、称徳天皇にそのお気持ちがおありでさえあれば、(実際に光仁天皇の御代にそうなったように)、清麻呂ではなく道鏡のほうをこそ罰することは十分にできたはずですし、「作文」を拒否することもおできになったはずです。
少なくともここまで口汚く清麻呂たちを罵って、ご自身の品位をお下げになる必要はなかったでしょう。

さらには、正史における道鏡事件の二度目のまとまった記述、『日本後紀』巻第八、延暦十八年、和気清麻呂の薨伝においても、
清麻呂が京へ戻り、神の教命どおり奏上すると、天皇は意に反する思いがしたが、清麻呂を処刑する気持ちにはならず、因幡員外介に左遷した。ついで姓名を別部穢麻呂と変え、大隅国へ配流した。(森田悌訳)
との記述はあり、称徳天皇が心情的に道鏡一味にこそ加担しておいでになったことは、明示されています。

『続日本紀』にしても『日本後紀』にしても、その編纂の時点では、とっくの昔に道鏡の罪状も確定し、神託の真偽にも決着がつき、称徳天皇も崩御されているのですから……
もしも本当に道鏡たちによる「作文」などという事実があったというのなら、称徳天皇の名誉のためにも、そう明記しておけばよさそうなものです。
しかし、そんなことは書いていない、書きたくても書けない、ということは、両書の歴史書としての誠実さの証拠でもあり、かつまた、当時の歴史認識における「ファクト」が何であったかを示唆する事実でもあるのではないでしょうか。

しかして、この正史本文における「ファクト」を上書きするかのような試みがなされているのが、正史における道鏡事件に関するまとまった記述の第三。和気真綱・仲世による天長元年の奏上です。
昔、神護景雲年中に、邪悪な僧道鏡は朝廷に出仕して恐れ多くも法王の号を僭称し、遂に皇位を狙う野心を抱き、悪事の成就することを願い、多くの神に幣物を差し出し、偽りの謀事を諂う者にもちかけました。ここで八幡大神が称徳天皇に皇嗣のないことを心配し、狼のような悪者(道鏡)が勢いを増すのを憂え、目には見えない神兵をもってその野望を挫くために何年も戦いを挑んだのでした。しかし、悪者のほうが数が多く大神のほうは寡く、悪が強く正が弱い状況で、大神はみずからの力の及ばないことを歎き、仏教の勝れた加護を仰ぎ、称徳天皇の夢中に入り、八幡大神のもとへ使いを遣わせと要請しました。そこで、勅により私たちの亡父従三位行民部卿清麻呂が呼ばれて、称徳天皇から直接夢のことを告げられ、皇位を道鏡に譲ることについて八幡大神に申し上げることになり、天皇の意を受けて宇佐神宮へ出向きました。すると大神は「神には大小があれば、善神・悪神もいる。善神は邪な意図の祭礼を嫌い、貪欲な神は悪意に出る幣物を受けるものである。我は皇統を盛んにし朝廷を救うために、一切経と仏像を写造し、『最勝王経』万巻を声を出して読み、一の伽藍を建立して、悪者を一朝にして除去し、国家の基礎を万代にわたり固めようと思う。汝はこの我が言葉を承知して、忘れてはならない」と託宣しました。
 清麻呂は大神に対し、誓約して「国家が安定しましたら、必ずのちの皇帝に奏上して神願を成し遂げます。命を惜しまず力の限りつとめて、神の言いつけのとおりにします」と述べたのでした。京へ戻り神の託宣を奏上しますと、不運にも罪人とされ、ついに辺境(大隅国)に配流されてしまいました。(森田悌訳)
全編が完膚なきまでに 仏 教 説 話 に変換されていることにまず驚きますが、その結果、何が起きているかといえば、称徳天皇の主体性の消滅です。
道鏡が法王を「僭称」したも何も、史実は、天皇が正式に任命あそばされたのです。「狼のような悪者(道鏡)が勢いを増す」ことは、まさに称徳天皇ご自身がお望みになったことであり、基本方針以外の何物でもなかったのではなかったでしょうか。
しかし、ここでは、道鏡一人を「悪者」にすることによって、一方の称徳天皇は決して彼の「共犯者」ではなく「被害者」であらせられたのだ、と、さりげなく印象を操作しようとしているかのようです。
和気清麻呂の冤罪にしても、先行する『続日本紀』や『日本後紀』の本文とは違って、称徳天皇の主体的関与は隠蔽され、主語不在の「不運」と化しています。
そもそも、驚いたことに、この奏上においては、「偽りの謀事」という漠然とした言い方がされているだけで、最初の偽りの「神託」の存在さえ、隠蔽されています。八幡神はただひたすら逆賊を打倒するために称徳天皇に勅使派遣をお命じになり、その意を受けて清麻呂が派遣されるのですから、こちらで考察したような「真相」の入る余地はどこにもありません。
要するに、この奏上において、主体的な善は八幡神であり、主体的な悪は道鏡であって、称徳天皇ご自身は、善vs悪のバトルのなかで翻弄される客体にすぎません。アニメ・ゲーム風に言うなら「モブキャラ」というところでしょうか。あるいは、正義の味方に救出されることをただ待つだけの「囚われの姫君」かもしれません(ならば和気清麻呂は八幡「神」に選ばれた「でんせつのゆうしゃ」でしょうかw)。

三度目の正直と言いますが、これが、正史における道鏡事件の三度目の詳細な記述なのですから、驚かされます。
そこには歴史的事実から飛躍する説話化の兆候が明らかに見て取れるのではないでしょうか。
もちろん、これはあくまで和気真綱・仲世による奏上であって、『日本後紀』本文ではありません。
しかしながら、奏上とはつまり天皇陛下に対し奉って提出された公文書です。
そしてこの奏上は淳和天皇によって基本的に許可されていますから、少なくとも仏教&八幡信仰の水準において、この「説話」は公認されたと言ってもよさそうに思えます。

道鏡事件から、この奏上が行われるまでの間に、何があったのか?
「説話」は「事実」とは異なりますが、人々の「認識」の反映ではあるでしょう。
道鏡、称徳天皇、和気清麻呂、そしてなかんずく八幡神について、上のような説話化が行われるようになった、その背景事情そのものは、興味深い「歴史」に違いないように思います。

この期間に起きた注目すべき史実として、まず、和気清麻呂自身の手による宇佐八幡宮人事の刷新(粛清人事)を挙げておきたいと思います。
典拠が『続日本紀』ではないようですが、『東大寺要録』『八幡宇佐宮御託宣集』によれば、光仁天皇の宝亀二年、和気清麻呂は豊前守に任じられ、八幡宮神職団の粛清と機構改革を行ったとされているようです。
具体的には、宝亀四年、禰宜辛嶋勝与曾女、宮司宇佐公池守を解任。代わって、禰宜に大神小吉備売、祝に辛嶋勝龍麿、大宮司に大神田麻呂を任じたと言います。
また、八幡宮の運営に携わる三氏(大神・辛嶋・宇佐公)の無用な派閥抗争を緩和するため、それぞれの氏の役職を固定化させる措置も取ったようで、こちらで参照した「八幡神とはなにか (角川ソフィア文庫)」によれば、清麻呂の改革以後、巫女による託宣は事実上消滅する方向へ向かうことにもなったとか。

その後、桓武天皇の御代には、清麻呂は実務官僚として重用されて高官となり、上の奏上にもあるように、従三位民部卿にまで至りますが……
平安遷都の立役者の一人として活躍した和気清麻呂、当然、北嶺の新仏教の創設・育成にも深く関与していたようです(平野邦雄「和気清麻呂 (人物叢書)」など参照)し、wikiによれば、上の奏上を行った真綱と仲世の兄弟に至っては、
五男・真綱と六男・仲世は高雄山で最澄と共に空海から密教の灌頂を受けて仏法に帰依し、新仏教興隆に一役買っている
とのこと。

要するに、和気清麻呂とその子供たちは、宇佐八幡宮の改革と、南都から北嶺へという仏教の一大改革、その両方に深く関与していた、もっと言うなら、責任者の一角だった。ということになるようです。
こちらをはじめ、くりかえし考察してきたように、古代日本最大の課題が仏教の侵略性の克服であったとするならば、和気清麻呂と和気氏の功績は、単に道鏡一人を退けたというだけにとどまらず、それを奇禍として「仏教の日本化」を推進し、その結果としての「日本に有益な形での神仏習合」を達成し(ようとし)たことにまで及んでいるのかもしれません。

後年、朝廷から宇佐神宮への奉幣の勅使には、和気氏があたることが恒例となり(宇佐和気使)、その最初の事例が天長十年、仁明天皇の即位のときに派遣された、(上の奏上を行った)和気真綱その人です。

こちらで見たような複雑なルーツを持ち、大陸・半島系の勢力の邪な影響も受けやすい地理的条件下にあった宇佐八幡宮もまた、その後、天台・真言の仏教との関係を深め、鎮護国家の宗廟として発展していきますが……それを見守り、導いたのが、和気清麻呂とその子孫たちだった、というのなら、それこそ、決して忘るべからざる日本史上の大英雄というべきでしょうし、困ったことに、その英雄性は、清麻呂を誰よりも高く評価したはずの黄門さまの認識とは、微妙なズレがあるのかもしれません?

まあ、あくまで、浅学菲才の私が当時の政治・宗教事情を、根本的に読み違えているのでなければ、ですが……💧
(清麻呂に再任された宇佐神宮神職の一人・大神田麻呂というのはこちらの登場人物でもあったりしますので、同名の別人でもないかぎり、単純に「粛清」といっても、いろいろと一筋縄ではいかない・割り切れないような気もします)
posted by 蘇芳 at 22:08|  L 「日本後紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする