2017年06月26日

八幡神雑想⑤ 宇佐国造と宇佐公


こちらで書いた通り、「日本書紀」神代巻の一書には、
則ち日神の生れませる三の女神を以ては、葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。
とあり、かつまた「先代旧事本紀」においては、この三女神が宇佐国造の祖神であるとされているそうです。

宗像三女神といえば天照大神と素戔嗚尊の誓約で生まれた神々。同じ誓約でお生まれになった神には天忍穂耳命もおいでになるわけで、乱暴に言ってしまえば、宗像三女神は天孫瓊瓊杵尊の叔母/伯母にもあたろうかということになります。その子孫というのですから、宇佐国造も相当なもの。
記紀に菟狭津彦・菟狭津媛として登場した宇佐の地方豪族は、かくして皇室の系譜とも関連付けられ、その権威と地位を高めることになったのでしょう。

しかしながら、それほどの来歴を設定された宇佐国造、それ以降は正史の記述にもあまり登場もしないように思いますし、何より、肝心の宇佐の祭祀権は、いつのまにか大神氏や辛嶋氏といった他氏族に移ってしまっています。
いったい宇佐国造に何が起きたのか? どこへ行ってしまったのか?
あくまでも一つの説ではあり、文書史料の乏しい古代、確たる証拠がどの程度あるのかは詳らかにしませんが、逵日出典「八幡神と神仏習合 (講談社現代新書)」においては、磐井の乱に加担して衰退したのだろう、という推測が提示されていました。

「日本書紀」によれば、新羅にそそのかされて謀反した磐井は、宇佐のある豊の国をも制圧したことになっているようですので、宇佐国造が何らかの形で乱に巻き込まれたことは事実かもしれません。
そして、乱の鎮圧後も宇佐国造家が再興されなかったのだとすれば……
なるほど、忠臣・宇佐が朝敵・磐井に攻め滅ぼされたというよりは、宇佐の一族もまた朝敵・磐井に加担し、共に朝廷に征伐された、という可能性も出てくるのかもしれません。

その推測をさらに後押しするのは、その後、宇佐の祭祀権を掌握した大神氏の存在でしょう。
この大神氏というのが、もしも、奈良の三輪山の祭祀を司るあの大神氏の同族なのだとすれば……
地方豪族に代わって、朝廷とも深い縁故を持つ一族が、新たな統治者としてやってきた、ということにもなりそうで。
この交代劇は、謀反とその鎮圧の結果としてなら、なるほどわかりやすい展開ではあるかもしれません。

要するに、逵日出典のシナリオにおける原・八幡神の来歴は、
1.宇佐嶋(御許山?)に天降った宗像三女神は宇佐国造の祭祀を受けて、その氏神となるも、
2.謀反に加担した宇佐国造家の没落を受けて、その祭祀権は大神氏へ移管され、
3.半島から渡来し東遷してきた辛嶋氏の奉じる「ヤハタ」の神と出会い、習合する
という三段階を、まずは踏むことになるようです。

しかしながら、何しろそこは日本の大和朝廷、御皇室のことですから……
旧約聖書やその他もろもろの世界でもなし。謀反を鎮圧した、討伐したといったところで、その一族郎党一人残らず根絶やしにしたという話ではないようで、宇佐氏は力を失いつつもその後も豊前豊後、宇佐に住みつづけていたそうで。逵日出典の前掲書によれば、その主要な集住地は、安心院盆地、院内谷、屋形谷の三ケ所だとか。
このうち、安心院盆地は宇佐氏発祥の地と推定され、院内谷には多量の法蓮伝承が伝わっており、また、屋形谷の一族は、八幡宮の御神体である薦枕の発祥伝承を持つ三角池の管理者(佐知翁・宇佐池守)との関連を見出すことができるのだ、と、逵日出典は主張しているようです。

詳細は前掲書に譲りますが。。。

とりあえず、法蓮とは誰か?
こちらの冒頭でさわりだけ触れておきましたが、「毉」術(「医」に「巫」が付随していることから、呪術的医療の類か?)によって人々を救ったという功績を朝廷から二度にわたって褒賞され、ついに「宇佐公」の賜姓にあずかったという仏教僧であり、この新たな宇佐氏が、その後、大神・辛嶋に加えて、宇佐八幡宮の運営にかかわっていくことになります。
その法蓮に関する伝承を、院内谷の宇佐国造家の末裔が語り伝えていたとすれば、法蓮自身が宇佐氏の出自であった可能性も出てきますし、少なくとも宇佐氏自身によってそのように観念されていたと推測することはできそうです(実際の血統よりも、その観念のほうが重要とも言える)。

結局のところ、薦枕の件とあわせて、古代の宇佐氏≒神武天皇を奉迎した菟狭津彦・菟狭津媛の末裔は、時を経て再興し、宇佐の祭祀にも再びしっかりかかわるようになった、ということではあるようで。
宇佐氏にとってはめでたいことですが、しかしまた、複雑怪奇な歴史には違いなく、以上が相当程度に正鵠を射た推定であるとすれば、八幡神というカミサマには、
・神体山~記紀神話~氏神信仰等神道(宇佐国造・大神氏)
・半島系シャーマニズム(辛嶋氏)
・仏教(法蓮≒宇佐公)
の三要素が奈良時代までにはすでにMIXされていたことになるようで……
一つの神様を三つの氏族・勢力が奉じていれば、その方針も行動も幾重にも複雑化するのが当然。三つの氏族のそれぞれが一枚岩とも限らず、内ゲバ・勢力争いの類もありうるとすればなおさらでしょう。
むしろよくこの状態で同じ一つの神格としての統一性を失わずにいられたものだと驚くべきかもしれません。
(あるいはその「統一性」をあらためて担保するために、後世、大菩薩号の付与や応神天皇との習合など、さらなる操作が必要になっていったのかもしれません?)

すでにこちらなどで見た通り、八幡神は奈良時代の政治に大きなかかわりを持ち、道鏡事件の舞台ともなります。
日本を滅ぼすべき偽の神託をもたらしたのも八幡宮なら、国体護持の真の神託をもたらしたのも八幡宮。
この分裂症かといいたくなるほどの八幡神の変貌には、(和気清麻呂や藤原百川の活躍はあったにせよ)、八幡神を祭祀する勢力の重層性、その重層性をもたらした九州という土地の歴史性・地域性(大陸・半島との交渉・抗争の舞台)が大きく関係しているのかもしれません。
皇位を簒奪し日本を乗っ取ろうと企てる勢力、皇統を護持しすなわち国体を護持せんとする勢力……いわゆる奈良時代の政争の背景には、それら勢力の抗争が横たわってはいなかったでしょうか?

道鏡の野望は阻止され、平安遷都~北嶺仏教という一大改革の端緒が開かれた……その史実の決定的な重要性は、その抗争の深刻さを踏まえてこそ、よりよく理解できそうな予感がします。気のせいかもしれませんが。
posted by 蘇芳 at 21:08| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする