2017年06月17日

レッテル


屯田兵を祀った北海道護国神社札幌護国神社、日露戦争戦没者慰霊のために創建された宮城県護国神社、昭和に創建された松江護国神社など、一部に例外はあるものの、護国神社の多くは、靖国同様、戊辰の役の英霊を祭祀する招魂社にルーツを持つもののようです。
戊辰の役ですから、当然、(靖国同様)、官軍・賊軍の問題が発生する可能性はあるでしょう。
普通に考えれば、靖国同様、護国神社も官軍戦没者のみを祀っているのだろうと推測できそうなものですが……
こちらの追記で見た鶴岡護国神社や、会津若松の英霊祭祀を含む福島護国神社などを見ると、少し、戸惑わされ、混乱します。

そもそも護国神社や靖国神社の前身となった「招魂社」は、平田派国学者などによって「考案」された祭式で、伝統的かつ正式な神社ではなく、位置づけが曖昧で、全国的に統一されていたのかどうかもよくわかりません。
何度か言及しているように、護国神社は靖国神社の分社というわけではなく、それぞれの地域で、それぞれ、思い思いに「郷土」の英霊を祀ったのが創祀ですから……御祭神の基準も靖国のそれとは違うものでありえた可能性は、ないこともないのでしょうか?

しかし一方で、最初の招魂社、京都霊山護国神社などは、明治天皇の思し召しによって創建が命じられ~ということになっているようですし、「全国護国神社巡拝ガイドブック~ご朱印めぐりの旅~」には、「招魂社制度」などという言葉まで登場するようです。
何より、やがてそれら招魂社は「官祭招魂社」ともなり、内務省令によって護国神社に昇格していくわけです。
護国神社が、それだけ公共性の強い神社だったとすれば……
会津や庄内では、いったい、どのような「戊辰の役」の「藩士」の英霊が祀られていたのでしょう? また、祀ることが可能だったのでしょうか?

戊辰の役に従軍した庄内藩の「藩士」を祀った鶴岡護国神社、戊辰戦争で戦死した(会津含む)福島県出身将兵を祀る福島県護国神社の御祭神は……素直に考えれば、賊軍であるはずではないでしょうか?
明治時代の「招魂社制度」において、それを堂々と祀ることが可能だったのか?
不可能だったとすれば、それら「藩士」は官軍将兵なのか?
そんな「藩士」がいたのか?
東北の護国神社の中には、たとえば、藩としては幕府方だったにもかかわらず、新政府方につくべしと主張した少数の藩士を祀った岩手県護国神社や、県域に朝敵・庄内藩を含みながら、最初の御祭神が薩摩藩士だった山形県護国神社など、政治的な事情が垣間見える例もあるようですが……
会津や庄内の招魂社にも、同様な政治的配慮が働いていたのでしょうか?
いたとしても、逆に、そんな御祭神を祀った神社を押し付けられて、会津や庄内の「崇敬者」は、素直に受け入れてくれるものだったのでしょうか??

前掲書を読んでも、神社の由緒を読んでも、そのあたりが今一つ詳らかにならず、正直、モヤモヤします。

勝てば官軍といいますが。実際、戊辰の役の「朝敵」の汚名などどう考えてもプロパガンダのレッテル貼りにすぎないでしょう。
反日極左や侵略者に汚染され尽くした現代とは異なり、維新の当時に、「官軍」だろうと「賊軍」だろうと、国を想い、郷里を想って命をかけた忠魂に、どれほどの違いがあったでしょうか?
本当の「正解」など暗中模索のなかで、選んだ道は異なれど、誰もが命をかけて国事に奔走したことは同じでしょう。
現代の私たちが、そうした先人たちの御霊に対して手を合わせることに、今さら、官軍も賊軍もあるものでしょうか?
しかしまた、官軍の英霊に対すると、賊軍の英霊に対するとでは、同じく参拝するにしても、心構えというか、仁義の切り方というものがあるようにも思います。
であれば……実際のところ、護国神社のそもそもの御祭神は、どういう方々だったのか、今さら歯に衣を着せないで、ハッキリしたところを書いてほしいような気もします。

賊軍を祀った護国神社がもし万一実在しえたとしても、それで参拝をためらる理由など、今となってはどこにもありません。
また一方、やはり護国神社には官軍しか祀られていないのだとしたら、それはそれで、「賊軍」将兵の慰霊顕彰について、別の方法が考えられてもよさそうなものでしょう。
(西南戦争の賊将・西郷隆盛は、明治天皇の思し召しで賊名を除かれ、南洲神社に祀られていますし、靖国神社境内の鎮霊社には、西郷はもちろん、白虎隊など戦争や事変で亡くなった「本殿に祀られざる日本人の御霊」や「諸外国の人」まで祀られています)。

「行って」「やって」「帰ってくる」
それが英雄の定義だと言ったのは、神話学者のジョゼフ・キャンベルだそうですが……
これを換言すれば、英雄とは、常に、帰還すべき場所≒故郷を持つ存在、故郷≒共同体に帰属する存在であるということになります。
それら共同体にはさまざまなレベルがあり、英雄もまた、氏族の英雄、郷里の英雄、国家の英雄、など、それぞれのレベルに応じて輩出されうるものでしょう。

明治政府が構想した国家祭祀が「国家の英霊」を創出しようとしたことはわかりやすいシンプルな着想ですが……
かつて彼らが濫用した便利な「朝敵」のレッテルが、めぐりめぐって、一部地方にとっての「郷里の英雄」や「氏族の英雄」をその国家祭祀の中に吸い上げていくことを妨げる、というような事態が起きたりはしなかったのでしょうか?
列藩同盟参加藩はこれ↓だけあったようですし、寝返りなどもあったようです。
wiki:奥羽越列藩同盟≫奥羽越列藩同盟参加藩
その内戦の「戦後処理」は如何にも重大ですが……
「官軍」といい「賊軍」といい、儒教的な硬直した名分論に縛られて禍根を残すようなことにでもなれば、それは単に会津・庄内カワイソウというだけの問題ではなく、薩長新政府の足もとをゆるがせかねない、失策でもありえたのではなかったでしょうか?

実際、反政府勢力による(実態の有無にかかわらない)「薩閥」「長閥」「薩長閥」のレッテル貼りに、今度は新政府のほうが、その後長らく悩まされることにもなり、「東北の窮乏」が反社会勢力に政治利用されたこともあったような気がしないこともなく……
他国に比べれば軽微にすんだ、と、悦に入るのも結構ですが、「内戦」の後遺症というものには、やはり、恐るべきものがあるのかもしれません。
全国護国神社巡拝ガイドブック~ご朱印めぐりの旅~
故郷の護國神社と靖國神社―「故郷の護國神社展」の記録 (シリーズ・ふるさと靖國)
posted by 蘇芳 at 15:49|  L 護国神社 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする