2017年06月15日

【動画】福島県護国神社









動画概要:
1)2014/03/19 に公開
福島県護 国神社 平成26年3月9日

2)2012/08/18 に公開
2012.8.15福島県護国神社にて終戦英霊感謝祭が行われました

3)2012/10/20 に公開
福島県の名所シリーズ/ 福島市
今回は、福島市にある護國神社です。七五三などでたくさんの人が訪れていました。護國神社には、綺麗な彼岸花が咲いていました。平和の尊さを訴える「悲願花」だそうです。戦没者の数と同じ六万六千本の彼岸花が咲いています。
福島県護国神社(公式)
wiki:福島縣護國神社

戊辰戦争で戦死した福島県出身将兵は、浜通りでは相馬で、中通りでは田村で、会津地方では会津若松で、三ケ所にわかれて、それぞれに招魂社を設けて祭祀されていたとのこと。
明治十二年になって、福島市の中心部に近い、信夫山中腹の現在地に「官祭信夫山招魂社」を建立、県内全域出身の神霊を合わせてお祀りするようになったのが、神社の創建となったそうです。

このカテゴリでは何度か述べていますが、靖国神社と各地の護国神社に、いわゆる本社―末社のような上下関係はありません。
それぞれの土地で、それぞれ別々に、その土地の英霊を、思い思いに祭祀したのが、それぞれの創建。
当然、どのような神霊をお祀りするか、その基準も、その土地その土地で、必ずしも一定していなかったのではないでしょうか(庄内藩の例もありますし)。

戊辰戦争を戦った「福島県出身」の将兵、なかんずく「会津若松」で祀られていたという御霊たちは、どのような立場の方々を指すのか?
wikiや公式サイトでは明言されていませんが、立ち止まって考えてみれば、少し深読みできそうな気もしてきます。
(それともこの時点ですでにいわゆる「新政府軍」にも会津出身者はたくさんいて、福島で祀られていたのも「官軍」将兵だけなのでしょうか?)

靖国には官軍しか祀られていない~と、揚げ足を取って離間工作をくわだてる工作員というのは、しばしば見かけますが……それでは、戊辰戦争当時の会津出身英霊に「官軍将兵」などという方々は、いったい幾柱いたのか、いなかったのか?
彼ら工作員が、各都道府県の護国神社に言及する姿を見た記憶は、あまりないようにも思います。

ちなみに、明治十二年というのは、皇太子嘉仁親王殿下(後の大正天皇)御誕生の慶事のあった年です。
(皇太子御誕生は8月31日、「官祭信夫山招魂社」の創建はwikiによれば10月4日)
会津の御霊が「官祭」の招魂社で祭祀を受けることになったのが、この慶事の直後というのも、まあ、あまり深読みする必要もないのかもしれませんが、タイミングとしては納得いくもののようにも思います。

何にせよ、今は昔。

西南戦争、日清・日露、第一次大戦、大東亜戦争を経て、数々の英霊を合祀してきた護国神社や靖国神社を、重箱の隅をつついて誹るものに、何の正当性もあるものではありません。

2本目の動画はやや長いですが、宮司さんのお話の中に、福島県出身のヒゲの隊長こと佐藤正久氏の名前も登場すれば、尖閣・竹島・北方領土は固有の領土というまっとうこの上もない力強い主張も見られました。
同じ神職といっても、こちらで画像を貼ったような汚染ぶりとは、雲泥の差が感じられます。
かつて長らく賊軍と貶められてきた会津の、しかし、実はこれこそが、本当の会津精神・会津魂なのでしょうか?
(まあ、境内にある県知事の文字も見える石碑やら、3番目の動画のいう「平和」には、嘘臭いパヨク的正義の匂いも感じられるような気がしなくもありませんし、神職さんもその場その場で適当に話を合わせているのかもしれませんが……疑いたくはないですが、実際、ヘンな神主もいますしねぇ、当方の地元が共産党の地盤だからか何なのか知りませんが)
全国護国神社巡拝ガイドブック~ご朱印めぐりの旅~
故郷の護國神社と靖國神社―「故郷の護國神社展」の記録 (シリーズ・ふるさと靖國)


追記:
そもそも、官軍だ賊軍だといって、国を思い皇室を尊崇する心に、どんな違いがあったでしょう。
むしろ、伝統的には、会津藩こそ、薩長などよりはるかに由緒正しい尊皇の家柄だといってもよいかもしれません。
なんとなれば、江戸時代初期、三代将軍家光の時代から、すでに、当時の会津藩主・保科正之は、こちらの追記でふれたように、垂加神道に傾倒するほどの一途な尊皇家だったのですから……

垂加神道についてはこちらこちらでもやや批判的に言及しましたが、
国に悪い者あれば、それを退治するがはらいぞ。あしき一揆、盗賊、およそ天下国家の害をなすことをば皆治めはらうがはらいぞ。
づんとさしつまりて、殺す道理になりてからは、人でもづんと殺すものぞ。少しも許さぬ心の、さるほどにきつかりとして許さぬ処ぞ。
とさえ主張していたのですから、闇斎に心酔した正之こそ、文字通りの「攘夷」思想の持ち主だったと言って言えないことはないかもしれません。

保科正之については、吉田神道の秘伝に、天照大神と素戔嗚尊が性交によって子作りをなさったとする解釈があることを知ったとき、天照大神の徳義・徳操を辱める妄説であると涙を流して憤慨し、その伝を破り捨てることを命じた、などというエピソードもあるそうです(菅野覚明「神道の逆襲」)。
今どきのSNSなら格好のオモチャにされそうな純情さですが……
それだけ本気の尊皇家・敬神家だったのでしょう。

もちろん、正之だけではありません。

最後の会津藩主・松平容保は、孝明天皇の側近にして、御所を含む京都の治安維持責任者(京都守護職)でしたが、その孝明天皇こそ誰よりも攘夷をお望みであったことはよく知られています。逆賊・長州の襲撃からその孝明天皇をお守り申し上げ、御嘉賞の御宸翰をさえ賜った、官軍・会津の藩主が、勤皇・尊皇の士以外の何者でありえたでしょうか?

関西人の私がなぜこんなことを書いているのか、我ながら謎な気もしますがw
勤皇vs佐幕という、きちんとした対偶になっていない、非論理的な図式というか、表現?用語?は、いいかげん、見なおしてもよいのではないかとは思うのです。
ラベル:護国神社
posted by 蘇芳 at 20:51|  L 護国神社 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする