2017年05月29日

八幡神雑想③


起源の説明は、しばしば、起源の隠蔽と裏腹です。もちろん、史実の反映や投影はありえますが、説明というものが常に事後的な行為である以上、解釈というフィルターを回避することは至難でしょう。情報・技術の発達した現代においてさえバレバレの嘘・捏造にいそしむ恥知らずはさておき、遠い昔の出来事についてはその「解釈」や「説明」「隠蔽」「歪曲」もまた歴史の一コマとして把握すべき事象かもしれません。

一般的に、八幡宮の縁起は、欽明天皇の御宇に応神天皇が降臨された、と「説明」します。
宇佐神宮:宇佐神宮について_由緒
御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に ご示顕になったといわれます
しかし、こちらで見た『八幡宇佐宮御託宣集』のようにさらに後の時代にまで由緒の説明は更新・整理されつづけるようですし、そもそも八幡神と天皇霊の同一視を示す文書史料自体、「弘仁十二年の官符に引用された弘仁六年(西815、皇1475)の官符」が最古。しかもそこでの文言はあくまで、
大菩薩是亦太上天皇御霊也
であって、明確に応神天皇(品太天皇)の文字が文書史料に表れるのはさらに後になってからのことだとか。

元々の原・八幡神がどのようなルーツを持つ神様だったのかはさておくとして、信仰史上のある時点で八幡神と応神天皇が同一化し、そこからあらためて「起源」「由緒」の説明が遡及的に形成された≒「上書き」されたということは、ありえそうに思えます。

しかし、そうして上書きされた「説明」のなかで、八幡神=応神天皇の御示現が、欽明天皇の御代とされていることには、なお、注目すべきものがあるでしょう。
むしろ、それが事後的な説明であればあるほど、八幡神=応神天皇の出現を、その時代に設定した「作者」の意図が込められているはずであるかもしれません。

何となれば欽明天皇の御代といえばすなわち仏教公伝の御代であり、その背景としての半島情勢が風雲急を告げていた時代でもあるのですから……
仏教公伝前後の半島情勢
和魂漢才
欽明天皇の御代とは、半島との「文化的交流」と「軍事的衝突」、その両方にとって重要な時代であり、その御代に創始された神社の由緒に、半島との軍事的衝突こそを象徴する応神天皇の存在が「事後的」に挿入されたのだとすれば、そこにはある大きな政治的転換の意が込められていると見るべきではないでしょうか?

一応、軽く歴史を振り返っておきますと……

欽明天皇ご自身は、仏教への判断を保留なさいましたし、敏達天皇は仏教をお信じにならなかったと書紀に明記されています。
日本ではじめて仏教信仰の意思をお示しになった天皇は、第三十一代用明天皇でしょう。
この用明天皇の御不例に際して、「日本書紀」に以下のような記述があることは、注目しておいてよいように思います。
この日天皇は病にかかられて宮中に帰られた。群臣がおそばに侍り、天皇は群臣にいわれた。「自分は仏・法・僧の三宝に帰依したいと思う。卿らもよく考えて欲しい」と。群臣は参内して相談した。物部守屋大連と中臣勝海連は、勅命の会議に反対して、「どうして国つ神に背いて、他国の神を敬うことがあろうか。大体このようなことは今まで聞いたことがない」といった。蘇我馬子大臣は、「詔に従ってご協力すべきである。誰がそれ以外の相談をすることになろうか」といった。穴穂部皇子は豊国法師をつれて、内裏にはいられた。物部守屋大連は、これを睨んで大いに怒った。(宇治谷孟訳)
物部氏の滅亡~蘇我氏の専横へとつづく時代の転換点ですが、この時点で宮中に入った僧侶は、すでにして「豊国」の法師であったようです。

「豊国」とは大雑把に言えば現代の大分県と合致する地域で、つまるところ宇佐神宮の所在地です。

こちらで国東半島の「国東(国埼)」には、国境の意味があるという説を紹介しておきましたが……
つまるところ、北九州一帯は、半島・大陸との交渉の要地でしょう。
三韓征伐、百済からの仏教伝来、くりかえされる新羅征伐、そのすべてにとって重要な舞台の一つとなったのが、この地域だったかもしれません。

蘇我氏にせよ道鏡にせよ、(正史の伝えるところによれば)仏教を以て日本を侵略せんとした逆賊ですが、対半島交渉の最前線こそは、それら仏教勢力の活動拠点であったとしてもおかしくはありませんし、「豊国」の八幡宮がいち早く仏教と習合したこともその意味では自然ななりゆきだったに違いありません。

しかし、また、侵略の最前線は、防衛の最前線でもあるでしょう。
三韓征伐(なかんずく新羅征伐)の衣鉢を継ぐ国体護持勢力もまた、同じ宇佐に存在していたとして、何の不思議もないように思われます。

道鏡事件において、偽の神託が宇佐八幡宮からもたらされ、真の神託もまた宇佐八幡宮からもたらされた。
このマッチポンプともいうべき掌返し、一つの神の中で反日と愛国がせめぎ合うかのようなその両義性は、さまざまな勢力が入り乱れる、北九州という、その土地柄にも由来するものなのかもしれません。

そうして、逆賊との関係や東大寺大仏に見るような性急な日本仏教化の尖兵としての八幡宮が、この事件を機に、一躍、鎮護国家の宗廟へと変貌を遂げてゆくのだとすれば……
後世にあらためて作り上げられた八幡宮の由緒が、応神天皇の御示現によって「説明」すると同時に「隠蔽」しようとしているものこそ、反日から愛国へという、この盛大な、あまりにも盛大な大転換そのものなのかもしれません。

そしてそれは、何も八幡宮に限ったことではなく、道鏡事件の結末から、平安遷都を含む桓武天皇の一大改革は、仏教そのものにとっても、壮大な大転換だったのではないでしょうか。
何となれば、こちらでも見たように、自性清浄と現世利益を説く北嶺の新仏教は、神道との妥協の可能性をより拡張していたといえるかもしれないようです。
奈良時代以前は「日本の仏教化」を意味していた神仏習合が、平安時代以後は本質的にはむしろ「仏教の日本化」こそを意味するようになったとすれば、それこそ、「勝負あった」というべきではないでしょうか。

付け加えると、平安時代以降の八幡宮は、まさにその天台宗・真言宗との関係をこそ深めていくとも言いますが……
奈良時代以前においてすでに神仏習合の最前線だった八幡宮は、平安時代の神仏習合においてもなお最前線でありつづけ、日本の日本による日本のための鎮護国家の仏教の発展に大きく寄与したといえる……のでしょうか?
八幡神とはなにか (角川ソフィア文庫)
八幡信仰 (塙新書 59)
posted by 蘇芳 at 16:25| 仏教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする