「続日本紀」を読んでみると、いわゆる奈良時代の政争の対立軸のようなものがおぼろげに見えてきます。実際にその軸を挟んで敵対した人々の勢力図については、藤原VS橘とか、こちらで考察した新田部親王VS舎人親王だとか、いろいろなとらえ方があるのかもしれませんが、その対立に仏教という要素が大きくかかわっていたことは間違いないように思いますし、その仏教と深く深くかかわっていた神が八幡神であったことも、確からしく思われます。
しかしてその政争は道鏡の失脚と、天智系皇統の復活、聖武系皇統の断絶、舎人親王の御子孫の復権、平安遷都などなどの結末を見ることになりました。伊勢神宮や大嘗祭(≒宮中祭祀)をさえ含めて日本を根本から仏教化しようとする試みは、一応、阻止されたといってよいでしょう。
で、あれば、その「日本仏教化計画」に大きく関与していた八幡宮も、それにともなって影響力を失っても、おかしくはないはずでした。
しかしながら、実際には、八幡宮が国家鎮護の宗廟としていよいよ全国的に尊崇されていくのは、むしろ平安時代以降ですし、そもそも、八幡神が「大菩薩」となられたのは、まさにその平安時代の開幕をお告げになった桓武天皇の御代だった、という話さえあるようです。
奈良時代の政権は、一種、シーソーゲームの様相を呈して交代をくりかえします。
聖武天皇の御代には、橘諸兄、玄昉、吉備真備などが重用され、皇女殿下(不破内親王)が新田部親王の御子(塩焼王)に嫁がれ、新田部親王の御子(道祖王)が後継指名される。その一方で、『日本書紀』編者・舎人親王に対しては、
舎人親王が朝堂に参入する時、諸司の官人は親王のため座席をおりて、敬意を表するに及ばない。(宇治谷孟訳)という謎の詔が発せられる。そんな時代でした。
東大寺大仏、国分寺・国分尼寺など、仏教政策を推進した、これが「聖武派」の面々であり、時代でしょうか。
ちなみに、こちらで見たように、国庫を蕩尽したと正史に明記してある謎の遷都騒動についても、政治の中心としての難波京・恭仁京に対して、紫香楽宮は仏教の中心≒「法都」として構想されていたという説もあるそうで、徹頭徹尾、仏教三昧の時代であり、現実的・効果的な政策からは遊離していた時代だったかもしれません。
この状況を覆したのが、藤原仲麻呂・光明皇后という藤原氏勢力と、舎人親王の御子・大炊王こと淳仁天皇でした。
橘奈良麻呂の乱を以て、「聖武派」の橘氏は失脚、聖武天皇によって指名された後継者・道祖王(新田部親王の御子)は獄死され、今一人の新田部親王の御子・塩焼王は「聖武派」を裏切って仲麻呂に接近します。
しかしながら光明皇太后の崩御を期に、聖武天皇皇女・孝謙上皇が、天下の逆賊道鏡を重用され、淳仁天皇との対決姿勢を鮮明にされ、ついに恵美押勝の乱が勃発。
藤原仲麻呂はもちろん、淳仁天皇・池田親王・船親王という、舎人親王の御子様方もそれぞれに非業の最期を遂げられますし、聖武派の「裏切り者」塩焼王も同様です。
そうして訪れた称徳天皇の御代が、聖武天皇のそれに勝るとも劣らない仏教三昧、むしろ道鏡三昧の時代であり、大嘗祭や伊勢神宮といった皇室の伝統の核心にまで仏教化の波が押し寄せ、逆らうものは容赦なく弾圧される、一種恐怖政治の様相を呈したことは、
太師(藤原仲麻呂)が誅されてからは、道鏡が権力をほしいままにし、軽々しく力役を徴発し、努めて伽藍を修繕させたりした。このため公私ともに疲弊し、国の費用は不足した。政治と刑罰は日増しに厳しくなり、殺戮がみだりに行われるようになった。それで後日この時代について言う者は、無実の罪がたいそう多かったと言った。(宇治谷孟訳)と、「続日本紀」に明記されているところです。
その究極に出来したのが、道鏡事件でした。
真の功労者が和気清麻呂だったのか藤原百川だったのか、にわかには詳らかにしませんが、シーソーゲームは再び反転。
光仁天皇の御代には、舎人親王の御子孫が次々に復権され、新田部親王の御子でありながら最終的には仲麻呂に従った塩焼王も、その妻・不破内親王の皇籍復帰が認められることで、ある意味、名誉回復され、淳仁天皇の「墓」も「山陵」として整備され、即位儀礼においても神祇の優先が詔され、「三宝」などはお呼びでなくなったこと、などなど、こちらで見た通りです。
さらには、こちらで見たように、光仁天皇の皇后・井上内親王でさえ、皇太子・他戸王と共に排除されました。それというのも、井上内親王もまた、聖武天皇の皇女殿下であられたからでしょう。
「聖武派」との決別は、かくも徹底的でした。
光仁天皇の崩御直後、塩焼王の遺児(=新田部親王の孫)であり、つまるところ不破内親王の御子(=聖武天皇の孫)でもある、氷上川継の乱が発覚、未然に防がれることで、奈良時代の政争は、ダメ押しの決着を見たというべきでしょうか。
そして訪れたのが、大帝・桓武天皇の御代でした。
こうしてあらためて見てみると、奈良時代の政界は、見事なまでにわかりやすく「二分」されていたようです。
出家して「菩薩戒弟子沙弥勝満」をお名乗りになった聖武天皇、同様に出家しつつ出家の身で政務を取ることの正当性を強く主張して重祚された孝謙・称徳天皇は、わかりやすく「仏教派」と申し上げてよいのでしょうし、新田部親王の一族も(塩焼王の裏切りを別にして)基本的にはこちらに与しておいでだったのでしょうか。
しかして、対する舎人親王は「日本書紀」編纂の中心人物とされていますが、その「日本書紀」が尊皇敬神、反仏教的な性格を強く持っているらしいことは、こちらをはじめしばしば指摘してきたとおり。そして、その舎人親王の御子孫と共に、「聖武派」に対抗した人々といえば、藤原氏、光仁天皇・桓武天皇ですが、彼らこそは、それぞれ、「日本書紀」に登場するヒーロー・中臣鎌足と中大兄皇子(天智天皇)の子孫に他なりません。
「わかりやすい」というよりは、むしろ「できすぎた」といったほうがよさそうな、これはそんな対立であり、構図ではないでしょうか。
さて。
前置きが長くなりましたが……
冒頭で述べたとおり、八幡神もまた、このシーソーゲームの渦中にあった神でした。
聖武天皇の御代には、こちらで見たような、大仏開眼・孝謙天皇践祚・八幡神入京という一大セレモニーが敢行され、禰宜・大神杜女と神司・大神田麻呂も異例の大出世を遂げましたが……
仲麻呂・光明皇后の勢いが増してくると、これも逆転。
「八幡神とはなにか (角川ソフィア文庫)
また、前後の聖武天皇、孝謙・称徳天皇の御代とは対照的に、淳仁天皇の御代≒仲麻呂政権下の九年間は、八幡宮への奉幣の記述が正史に一切見られなくなっている、とも言います。
神であれ人であれ、「聖武派」は排除すべしという、これもまたシーソーゲームの徹底であったのかもしれません(つけくわえるなら、宇佐の神人を失脚させた「呪詛」という便利な手段は、この後も、それぞれの勢力によって〝かわるがわる”濫用されていきます)
もちろん、そのシーソーは、恵美押勝の乱を以て、再び反転。
天平宝字八年(西暦764年、皇紀1424)、乱の終息と共に、八幡宮への尊崇も復活。
「続日本紀」同年九月二十九日には、「逆賊」仲麻呂への非難と共に、
宇佐八幡の大神に、封戸二十五戸を宛てたとの記述が見られますし……
いわゆる道鏡事件、宇佐八幡宮神託事件についても、後世、さまざまな珍解釈が提出されているものの、当時、大宰府の長官が道鏡の実弟だったこと、偽の神託をもたらしたのがその大宰府の主神司だったこと、道鏡が勅使派遣の妨害も阻止も試みていないこと、和気清麻呂の「義挙」に称徳天皇ご自身が激怒されたこと、などなどから察するに、事件の真相は推して知るべしでしょう。
それなりの根回しはしてあったとみるべきであり、要するに八幡宮はこのときもなお「聖武派」でありつづけていたのではないでしょうか。
(つけくわえるなら、「八幡神とはなにか (角川ソフィア文庫)
ここまでは、やはり、まことにもってわかりやすいシーソーゲームが継続しています。
こうなれば、光仁天皇・桓武天皇の御代に、もう一度このシーソーが反転することは、当然に、予想されてしかるべき展開でしょう。
しかしながら、冒頭で述べた通り、八幡宮が国家鎮護の宗廟としていよいよ全国的に尊崇されていくのは、むしろ平安時代以降ですし、そもそも、八幡神が「大菩薩」となられたのは、まさにその桓武天皇の御代にほかならなかった、らしくもあるようです。
引き続き「八幡神とはなにか (角川ソフィア文庫)
その後、延暦末年の官符などにも「八幡大菩薩」は見えており、いわばこの号はすでに朝廷公認のものになっていたようです。
その後も社殿の新築や神封の施入など、宇佐八幡に対しては、朝廷によって手厚い措置が取られつづけていくようです。
なぜか?
上記「八幡神とはなにか (角川ソフィア文庫)
一般に、八幡神は応神天皇と同一視されますが、この習合がいつ起きたのかについては、諸説あるようです。
著者としては、八幡神と応神天皇の同一視はもっと後の時代に生起した現象であって、桓武天皇の御代には、むしろ、聖武天皇こそが八幡神と一体化していた、と、主張します。
大仏関連のセレモニーへの聖武天皇の入れ込みようからしても、そういうことがあってもおかしくはないように感じられるかもしれませんし、文書資料としては、「弘仁十二年の官符に引用された弘仁六年(西815、皇1475)の官符」というものがあるそうで……
九世紀初頭には、八幡神は、「大菩薩是亦太上天皇御霊也」と観念されていたのだとか。
この時点で、直近の、太上天皇≒譲位して上皇におなりあそばされた天皇とは、どなたでしょうか?
病で崩御された光仁天皇や、弑逆された淳仁天皇ではないでしょう。
孝謙・称徳天皇も淳仁天皇の御代には上皇であらせられた時期はないでもありませんが、その時期については「高野天皇」とお呼びするほうが通りがよいようです。
つまるところ、九世紀初頭にただ「太上天皇」とだけ申し上げて通じる天皇・上皇といえば、それは、道祖王への継承を指示したうえで孝謙天皇に譲位あそばされた、聖武天皇にほかならない、ということになるようです。
そしてまた、例の「八幡宇佐宮御託宣集」には、八幡神はすでに宝亀八年(西777年、皇1437)の時点で「出家」されていたという説が掲載されており、その御出家の日付「五月十九日」は、天平勝宝八年(西756、皇1416)聖武太上天皇が佐保山陵に葬られたのと同じ日付けでもあるのだとか。
この葬祭について、「続日本紀」には、
葬儀の次第は仏に仕えるが如くに行われた。
「太上天皇は出家して仏に帰依されたので、あらためて諡を奉らない。所司はこれを承知せよ」と勅された。
(宇治谷孟訳)
との記述が見られます。「高野天皇」のような通称はもちろん、正式な諡号もお持ちにならない上皇の御霊については、それこそ「太上天皇御霊」と申し上げるよりほかになさそうですし、その上皇は「仏に仕えるが如くに」お仕えすべき対象でもあるわけですから、なるほど、「大菩薩是亦太上天皇御霊也」というその「太上天皇」が聖武天皇のことである、という想定にも、一定の説得力はありそうかもしれません。
以上の根拠から、この時期、八幡神は(応神天皇ではなく)聖武天皇とこそ同一視されており、八幡神への「菩薩」号の追贈は、すなわち、聖武天皇への追贈にほかならない。
それすなわち、日本を徹底的かつ根本的に仏教化するという目的を阻止された聖武天皇の無念・怨念を鎮めるためである……と、著者は主張するようです。
はたして上の根拠からだけで、そう「断定」できるかどうかは、素人の私ごときにはよくわかりませんが、一つの「可能性」「説」としては十分に興味深いものではあるかもしれません。
そもそも桓武天皇の御代は、上でも触れた井上内親王、さらに日本最大級の早良親王(崇道天皇)などの怨霊に悩まされた時代でもありました。
聖武天皇の皇女殿下・井上内親王はもちろん、早良親王もこちらで触れたように「聖武派」のいわば「残党」に巻き込まれたような形ですから……
それら怨霊のすべての背景に、奈良時代の凄惨なシーソーゲームの影があり、その根源にある究極の怨念こそ、聖武天皇の日本仏教化という宿願・悲願(あるいは「妄執」)だった、と、観念することは不自然でもないように思えなくはありません。
聖武天皇に始まり桓武天皇に終わった奈良時代のシーソーゲームの核心が、仏教をめぐる問題であったとするならば……
その終局が、桓武天皇による聖武天皇の「仏教式」の鎮魂儀礼だったというのは、いかにも皮肉ななりゆきかもしれません。
そもそも、一般に、平安遷都の目的の一つは、腐敗堕落した南都仏教との決別、であると言われますが……その後、新都・平安京で隆盛したのもまた、北嶺の「仏教」にほかなりませんでした。
いったい、仏教をめぐる対立の勝者は、結局のところ誰だったのか?
こちらなどで指摘した、幕末の儒家神道のような性急な反仏教の情念からは、あやしく思えるかもしれません。
しかし、仏教そのものの「根絶」などという乱暴な措置はとられなかったものの、平安時代以降、こちらの末尾で触れたように、少なくとも伊勢神宮や宮中祭祀への仏教の影響は排除されるようになったことは確かですし、桓武天皇が目指された仏教そのものも、こちらやこちらで見たように、すでに南都のそれとは異質でした。
つまるところ、この時代、仏教か反仏教かという単純な二者択一ではなく、そこで生起しつつあった、仏教自身の進化・変革・脱皮にこそ、注目すべきなのかもしれません。
そして、上で見たように、「八幡大菩薩」の本質が、怨霊の鎮魂≒御霊信仰にあるのだとすれば……
表層における仏教的な装いの如何にかかわらず、それはむしろ端的に神道祭祀であるとも言えるわけであって、だとすれば、そこで生起している神仏の「習合」とは、「神道の仏教化」ではなくむしろ「仏教の神道化」であると云うこともできるのではないでしょうか?
(完全に仏教式で誰かの怨念を鎮めるのなら、勅願寺でも建てて菩提を弔うのが正当でしょう。菩薩という名の「神」に祀って祝詞を奏上する、というのは、さて、「仏教」でしょうか?)
禍をもたらす御霊を、篤く祭祀することによって、福をもたらす神霊へと、転換していく……
それが神道祭祀のひとつの側面であるとすれば、公伝以来、日本に逆賊をはじめとする禍をもたらしつづけた「仏」という御霊もまた、「神」として祭祀することで、無害化し、かえって恩寵をもたらす神霊へと転化していくことが、可能であるべきはずではないでしょうか?
奈良時代以前、蘇我氏や「聖武派」が、日本を「仏教化」しようとしたのだとすれば、平安時代以降は、逆に、仏教をこそ「日本化」していく可能性が開かれた。
それこそは大帝・桓武天皇に帰結した古代の国体護持勢力の勝利であって、「八幡大菩薩」の複雑な習合形態こそは、その思想的営為の苦闘のあとを示しているのかもしれません。
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八幡大神(はちまんおおかみ)―鎮護国家の聖地と守護神の謎 (イチから知りたい日本の神さま)
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追記:
これまでにも何度か言及していますが、江戸時代の尊皇家、水戸光圀は、こちらで見たように、八幡神を嫌っていたようです。
光圀が、同時に、和気清麻呂を大いに積極的に評価する史観を初めて確立した「大日本史」の編纂主唱者であってみれば、なるほど、奈良時代の八幡宮の「聖武派」的あり方からして、わかりやすい話ではあるかもしれません。
しかし、平安時代以降の「八幡大菩薩」が、国家鎮護のためにいかに働き、皇室から、公家から武家から、一般庶民に至るまで、どれほどの篤い尊崇を受け続けてきたことか、それはなぜか、それを考えたとき、光圀のように単純に八幡宮を排斥して事足れりとできるでしょうか?
八幡大菩薩は、やがて(聖武天皇ではなく)応神天皇と習合し、すなわち神功皇后と習合していきますが、それこそは、有史以来日本に禍をもたらしつづけてきた敵国を調伏された皇后です。
福岡県の筥崎宮は、社伝によれば、醍醐天皇が神勅により「敵国降伏」の宸筆を下賜されたというのが創建の由来であり、その「敵国降伏」を祈る神社の御社殿は朝鮮半島に向けて建てられているとかいないとか……
八幡神が、こちらで書いた通り、そもそもは国境防衛の軍神でもあったのだとすれば、尊皇攘夷の士がその神を蔑ろにするというのも、奇妙な話のようにも思えるのです。
(こうなると八幡神だけでなく、水戸学のほうについても、もっと調べていかないといけないかもしれませんねぇ……)
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