2017年05月24日

八幡神雑想


奈良時代の神仏習合思想はこちらで述べた神身離脱説や護法善神説という卑屈・自虐と言ってよいものでもありましたが……
八幡神こそは、いち早くその仏教と習合し、大仏建立にかかわり、道鏡擁立の偽神託をもたらした神でした。
尊皇敬神の士・水戸光圀に排斥されたのも、けだし当然というべき神様かもしれません。

しかし同時に、八幡神は、
三韓征伐の天皇・皇后と習合した神でもあり、
逆賊排除の真の神託をもたらした神でもあり、
源氏の氏神でもあり、
国家鎮護の神として、国家規模で崇敬されつづけた神でもあります。

国家鎮護の神、とは、すなわち政治・軍事に積極的にコミットしてきた神ということでもあり、政治的スタンスによって評価が左右されやすいのは、むしろ当然かもしれません。
上のリンク先で書いたように徳川光圀は、領内の八幡宮を「一掃」しましたが、それは八幡神の性格と同時に、あるいはそれ以上に、光圀公のスタンスをこそ物語る事象でもあるでしょう。

日本を取り戻す、そのためには取り戻すべき「日本」とは何かが問われなければならず、古今の尊皇家はしばしば古代・神代の歴史にそのルーツを求めてきました。上の光圀公もその一例でしょう。
そのこと自体はすこぶる正当ですが、しかしまた、本当に本当の「真実」には容易に到達できず、いかようにでも歪曲・捏造できてしまうのも、古代史というもの。
反日勢力の悪意の捏造はもちろん決して許してはなりませんが、熱心な尊皇家もまたその熱心さゆえに性急かつイデオロギー的な単純化の罠に陥りやすいかもしれないことは、留意すべきことのように思いますし、実際、こちらこちらこちらなどで冗語を重ねてきたように、光圀公をはじめ、江戸時代の尊皇家もまた、微妙な錯誤を犯していたかもしれません。
(そもそも曲がりなりにも源氏を名乗っていたはずの徳川のなかでも「御三家」でありながら、八幡神を嫌った光圀公のほうこそが、思想的には異端的と言うべきなのかもしれません? もちろん、異端だからこそ過激化しやすく、過激化したからこそ時代の変革にコミットしえたのかもしれませんが)

いずれにせよ、複雑な習合形態をもち、その時々の政治・軍事・時代状況に積極的に関与してきた八幡神を、単純に裁断することは不可能ですし、すべきでもないでしょう。
八幡神を素直に信仰するか、光圀公のように批判的に見るか、その善し悪しは別にして、俗世の政治・軍事に積極的に関与してきた八幡神・八幡宮が、日本の歴史について考えるヒントを豊富に内包している神様であることは、確からしく思えます。
八幡神・八幡宮の理解が深まれば、日本の歴史、なかんずく精神史・思想史への理解もまた、深まるのではないでしょうか。

下の動画は宇佐市インターネット放送局から。
元寇の史実よりはむしろ、それを契機に飛躍した八幡信仰や神風伝説に軸足を置いた動画でしょうか。

動画概要:
2015/03/24 に公開
国宝 孔雀文磬(くじゃくもんけい)
磬(けい)とは法会の際に打ち鳴らされる仏具で、孔雀の文様が刻まれていることから、孔雀文 磬と称されています。特にこの磬は石清水八幡宮の別当田中祐清(たなかゆうせい)が1208 年(承元2)に弥勒寺の金堂に奉納したことを示す銘文があります。これによって磬の由来を明 確に知ることができ、国宝に指定されていて、鎌倉時代の代表的な作例となっています。
国指定重要文化財 豊前善光寺
善光寺は宇佐市大字下時枝(しもときえだ)にある浄土宗の寺院で958年(天徳2)に念仏聖 空也(ねんぶつひじりくうや)上人が開いたと伝えられています。芝原(しばはら)善光寺とも 呼ばれ、信濃善光寺(長野市)甲州善光寺(甲府市)とともに、日本三善光寺の一つとされてい ます。由緒書に次のように書かれています。 『空也上人は宇佐八幡宮の加護を乞い、四日市の地にきたところ白髪の老翁が現れ、三尊の金像 を上人に授けた。この尊像は信州善光寺の分身である。最初は建物なども無く、この尊像を芝生 の上に安置しただちに一宇を建立』とあります。 「(尊像を)芝生の上に安置した」とあることなどから、芝原善光寺という名の由来がうかがえ ます。
豊前善光寺本堂
1250年(建長2)建立とされているが、室町時代初期との説もある。現在、本堂に使用され
ていた鬼瓦(県有形文化財)が残っているが全体的に精巧なつくりで、室町時代初期は下らない
といわれている。
元寇(げんこう)と八幡神
平氏滅亡後、源頼朝は鎌倉に幕府を開きました。しかし、それから半世紀後に源氏は3代で絶え、 幕府は北条氏による執権政治が確立しました。ちょうどその頃、中国の「宗」を滅ぼした「元」 が大陸で大きく勢力を伸ばし、朝鮮半島の高麗をもその支配下に置き、その勢いで日本にも服従 するように迫ってきました。しかし、幕府はこの要求を否定し、西の武士に、元の襲来に備えて 九州(鎮西ちんぜい)に所領をもつ東国御家人に、九州へ行き防御を厳しくするように命じまし た。このように幕府は、武士達に異国警固を命じる一方で、各寺院や神社に「異国降伏の祈祷」 をするように命じました。中でも大きな期待が寄せられたのが九州の宇佐八幡宮でした。宇佐宮 の八幡神は、奈良時代より「国家鎮護の神」という扱いを受け、また神仏習合の最初の神であり、 国東の六郷満山寺院ともども、その祈祷の効力に、当時の人々は大きな期待を寄せていました。
文永の役・弘安の役 ~元は二度にわたって壱岐・対馬を占領し博多湾に攻め込む~
日本の武士は、博多湾沿岸に手分けして防塁を築き、元軍と戦いました。軍事力で圧倒され劣勢 に立たされた日本でしたが、不思議なことに夜大風が吹きあれ、船で休んでいた元の大軍は海に 投げだされ、海底に沈んでいきました。こうして元軍は敗北し、国に引き上げていきました。 この不思議な大風を人々は、八幡神がをはじめとした神々が吹かせた風に違いないと信じ、 「神風」と呼ぶようになりました。
八幡宇佐宮御託宣集~八幡神の歴史を語る史書~
「八幡神の歴史を語る」ことは、「神々の戦争」ともされる、蒙古(もうこ)襲来を契機として 体系化されました。なかでも、1313年(正和2)に弥勒寺の神吽(じんうん)が編集した『八 幡宇佐宮御託宣集』(全16巻)は、八幡神の縁起の集大成というべき書です。「八幡神は大隈(お おすみ)(日向ひゅうが)国の辛国城(からくにのしろ)に八流の幡として天降って(あまくだ) 日本の神になった」という記述から始まります。 八幡神の託宣をはじめ、さまざまな八幡神の由緒や霊験に関する情報が載せられています。

「船に乗った騎馬民族」の撃退について、現在では、今さら「神風」でもない、さまざまな現実的要因も指摘されているようですが……
この神風の伝説が八幡神の名声を高めたことは間違いないでしょうし、それが信仰史上の画期として「活用」されていくことも間違いのない事実のようです。
そこであらためて整理・編纂された『八幡宇佐宮御託宣集』には、上の動画概要にあるように、八幡神が「八流のとして天降っ」たことが記されているようです。

八幡神の「幡(ハタ・まん)」の字・音については、秦氏の「ハタ」、焼畑の「ハタ」、仏事の際に用いられる「」などなどの説も唱えられてきたそうですが……
動画冒頭に登場したとおり、これは大隅・日向の隼人の反乱鎮圧に際しての話ですから、ここでいう「幡」とは、仏事というよりは軍事的な「旗指物」の類と見たほうが自然な気がします。
ちなみに孫引きですが、「福永光司」氏によれば、唐の軍制には「八幡・四鉾」とかいう制度があったとかなかったとか。

神籬・磐座ではなく、軍旗に降臨する神、というのは、事実とすれば、なるほど、渡来系のルーツを想像させる話ではあるかもしれません。
節操のない反日勢力なら、この一点をもってニダニダアルアル喚きだすのかもしれませんが。さまざまに習合を重ねてきた八幡神の「ルーツ」が一つだけであるはずはありませんし、そもそも、ルーツはどうあれそれが「日本の神」になったと明確に宣言しているのが、上の「託宣集」。
その「日本の神」とはすなわち、三韓征伐の神でもあり、元寇撃退の神でもあるのですから、反日勢力の皆さんは、喜んでいる場合でもないように思うのですが、さて?

八幡神の軍事的性格は、そもそも、本宮である宇佐八幡宮の所在地にも表れているかもしれません。
wikiの地図など見れば明瞭ですが、宇佐神宮の所在地は、国東半島の付け根。
「国東」とは、古くは「国埼」「国前」と表記されていたといいます。
『豊後国風土記』には、九州征伐に向かわれる途中、景行天皇が、対岸の山口県から国東半島を遠望して「かの見える所はもしや国の埼か」とお尋ねになったという、地名由来譚が載っているそうですが。
これから反乱鎮圧のため敵地へ乗り込もうとする直前にあれが「(わが)国」の「埼(前)」かと確認されているわけですから、「国東半島」とは、元は、最前線・軍事境界線をこそ意味していた。のではないでしょうか。

八幡神が、単なる一地方神や、特定氏族の氏神などであるだけではなく、国境防衛の軍神でもあったとすれば、国家鎮護の神として中央に勧請され、国家的な崇敬を受けるようになることも、うなずけます。
神だ仏だ半島だ大陸だと、イデオロギー闘争に精を出すのも結構ですが。
日本人にとっては、神々といえば、その「ルーツ」や「出自」ではなく、その御神徳・御利益、すなわち実利的な「機能」こそが重要。
実際に御利益の一つでもあるのなら、どこの何という神でも仏でもイワシのアタマでも拝んでしまうという……
そのミモフタもない現金さもまた、古今を通じて変わらない、日本の「こころ」なのかもしれません。

そういう意味では、(蘇我氏や道鏡は別として)、用明天皇や聖徳太子、聖武天皇もまた、国家鎮護・天下万民のための「実利」をこそお求めになったのではなかったでしょうか。
「いいかげん」は「良い加減」。
仏教導入の「結果」については、幕末の尊皇家のような批判もありうるでしょうが、だからといってあまり意固地に凝り固まるのも考えもの。仏教導入の「動機」「大御心」については、それはそれ、として視るべきことのようにも思われ……
このあたりを突き詰めていけば、あるいは、光圀公や儒家神道のイデオロギッシュな態度こそ「日本的」ではない、ということにさえ、なりかねないのかもしれません。
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posted by 蘇芳 at 16:25| 神道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする