2017年04月03日

【動画】岩手県護国神社


一日一善。





動画概要:
1)2009/03/30 にアップロード
岩手護国神社参拝。郷土芸能観賞(農業博物館にて)。

2)2012/08/21 に公開
啄木新婚の家、盛岡城跡の後に
行ったからめちゃくちゃ歩き疲れた(;´д`)

駅からだいぶ離れてたから
1人もいなかった( ̄▽ ̄;)

他に動画が見つからなかったので、岩手県民にはもう少し頑張っていただきたいところですが。
盛岡八幡宮の境内に鎮座しているようで、目立たないといえば目立たない護国神社なのかもしれません?
盛岡八幡宮境内案内 ≫ 岩手護國神社 周辺
護國神社ゾーン
下の動画などは実際に参拝されているのは護国神社ですが、動画タイトルは「盛岡八幡宮」になっていますね。他の動画も意外とこういう形で埋もれているのかもしれません……

何はともあれ。

盛岡藩士、目時隆之進政明、中島源蔵常明の両名は、旧幕府側だった盛岡藩に対して、新政府側に加わるように運動した勤皇の志士でしたが、藩論を変えるに至らず、切腹を遂げたとのこと。
明治二年、盛岡藩最後の藩主にして藩知事、南部利恭によって、両名の慰霊顕彰を行うため、盛岡市茶畑に招魂社が創建され、やがて明治十四年に盛岡内丸公園地(盛岡城跡)に、ついで明治三十九年には現在地に遷座。
昭和十四年には例の内務省令(追記参照)によって「護国神社」と改称されるとともに、新たに社殿を建立して現在の姿になったとのことです。

藩論に逆らったただ二人の藩士のために藩主が神社を創建するというのもなかなか剛毅な話ですが。
wiki:
盛岡藩 ≫ 1 歴史:江戸時代 、 明治維新
明治元年(1868年)、当初、藩内は新政府方・反新政府方に意見が対立していたが、最終的に楢山佐渡が藩論を奥羽越列藩同盟への参加継続で一致させ、途中から新政府側についた久保田藩に攻め込んだ秋田戦線において大館城を落したが、その後は新政府側による大量の補給物資が久保田藩に到達して戦況は一変し、多くの戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押されてしまう。盛岡藩領内へ戻った楢山佐渡以下の秋田侵攻軍は、留守中に藩を掌握した朝廷側勢力によって捕縛され、盛岡藩は朝廷側へと態度を変更しはじめた。

楢山佐渡 ≫ 奥羽越列藩同盟
これに異を唱えたのが、御用人の目時隆之進と目付役の中嶋源蔵だった。彼らは何度か佐渡と膝を交えて討論をしたが、ついにその意見が入れられないと悟ると、目時は長州藩邸へ走った。また同盟に断固反対の立場を取った中嶋を、佐渡らは奸臣と呼んだ。中嶋は自身の死をもって佐渡を諌めようと切腹したが、その行動も空しく、佐渡は新政府に対抗する道を選んだ。
幕末動乱の例に漏れず、藩内もさまざまに意見が割れていたようで。
楢山佐渡には楢山佐渡なりの言い分もあったでしょう。南部利恭たちにも複雑な思いはあったかもしれません。
あるいはそれは賊軍の汚名を負わされた各県に大なり小なり共通する事情だったかもしれませんが……

そんなこんなの時代の激動を経て、現在は、岩手県出身の英霊三五七七八柱を祀る護国の御社です。
幕末のアレコレはアレコレとして、祖国に殉じられた英霊に、県民等しく鎮魂の誠を捧げていただければ、と。

我田引鉄のポピュリストでもあるまいに、今さら抗議でもないでしょうしね……
佐渡と同様に盛岡藩家老の家に生まれた政友会総裁・原敬は祭主として列席し、「戊辰戦役は政見の異同のみ」とした祭文を読み上げ、盛岡藩とそれに関わる賊軍・朝敵の汚名に対し抗議の意を示した。
全国護国神社巡拝ガイドブック~ご朱印めぐりの旅~
故郷の護國神社と靖國神社―「故郷の護國神社展」の記録 (シリーズ・ふるさと靖國)

追記:
上の笹川氏の動画はどういう機会に撮影されたものかよくわかりませんし、笹川氏のこともよく知りませんが。
笹川は、投獄初日の1945年12月11日から翌年11月まで獄中日記をつけていた。この日記には、巣鴨プリズンの様子やABC級戦犯達の人間像が克明に描かれている。また、日記には彼の信念、「日本が親米反共の道を選ぶべきこと」、「日本同胞を餓死から救わねばならぬこと」、「世界平和を確立させねばならぬこと」などが繰り返し書き付けられている。

この日記によると獄中の笹川は、東條英機に対して「あなたの死刑は確実だから、この戦争が自衛のためのものであったという日本の立場を明確にし、開戦の責任は天皇にはないとはっきり主張せよ」と説いている。
wiki:笹川良一 ≫ A級戦犯容疑と「巣鴨日記」
私たち戦後生まれの自虐教育世代にとっては、競艇のCMの人くらいしか印象がないかもしれませんが、wiki↑の記述が事実であるとすれば覚えておいてもよい名前かもしれません。
まあ、一方で共産支那やカルトなどおかしな交友関係も多かったようですし、本人の日記だけを鵜呑みにはできないかもしれませんが……
東條さんご自身の名誉さえ著しく毀損されてきた戦後の亡国の風潮の中で、上のような主張を守り通すというそのこと自体、勇気ある行為であったには違いないのではないでしょうか。
巣鴨日記
続・巣鴨日記 (笹川良一と東京裁判)
人類みな兄弟
笹川良一伝 世のため人のために
ラベル:護国神社
posted by 蘇芳 at 15:28|  L 護国神社 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする