2017年04月02日

【動画】鵜戸神宮






動画概要:
1)2014/07/15 に公開
鵜戸神宮の写真をスライド動画化したものです。
全画面表示、HD(1080p)でご覧ください。
BGMも入っておりますので、是非ヘッドフォンでお楽しみください。

鵜戸神宮は「海幸 山幸」の山幸彦の息子、(神武天皇の父)鵜葦草葦不合命
(ウガヤフキアエズノミコト)を祀る神社です。 
ウガヤフキアエズノミコトの父はヒコホホデミノミコト(山幸彦)、母は
海神の娘トヨタマヒメです。

断崖絶壁の大洞窟(およそ千平方メートル(約三百坪)の中に朱塗り
の御本殿をかまえる 鵜戸神宮は、地元では 「鵜戸さん」 と愛称され
安産 夫婦円満、育児、漁業、航海 そして 縁結びの神として 古
くから信仰を集め、念流陰流 剣法発祥の地としても知られています。

国定公園日南海岸、日南市鵜戸山の日向灘に面し、奇岩怪礁は南北
約1.5kmにわたり分布日本一の規模を誇り、目の前に広がる紺碧の
海とのコントラストの素晴しい景勝地でもあります。

凪いだ日の海は、深く澄み恐ろしいまでに綺麗です。

周辺には鵜戸神宮以外にも波切神社 御陵墓伝説地吾平山上陵等も
あります。
特に吾平山上稜の方は、足場も悪く、ちょっとした登山感覚ですので、
滑りにくい靴で!
周辺には他にも見所がたくさんありますので、お時間、(吾平山上陵は
体力も)があれば、是非訪ねてみてください。

鵜戸神宮の詳細は、当サイト内 鵜戸神宮ページを参照願います。
http://miyazaki.daa.jp/udo/

当サイト内、記紀編さん1300年関連ページは下記。
http://kojiki.gozaru.jp/

2)2016/01/26 に公開
【あらすじ】こうしてホオリノミコトは、日向の二台目の主となります。その後、トヨタマヒメが、海の国からやって来ます。妊娠し出産がせまっている事を告げ、天津神の御子を海の国で産むわけにはいかず、ミコトの居るこの国で産むことを申し出ます。急きょ産屋を立てることに成りますが、屋根にかやを葺き終わらぬうちに、産気づきます。その時、トヨタマヒメはミコトに、「異国の女が出産に際しては、本来に姿にもどって出産するので、決して私の姿を覗かないでください。」と頼みます。ミコトは、不思議に思い、ヒメが出産する姿を覗き見してしまいます。何とそれは、サメがのたうちまわっての出産む姿でありました。ミコトはびっくりして、その場を逃げ出します。この事を知ったトヨタマヒメは、自分の本当の姿を見られた恥ずかしさのあまり、生れたばかりの赤子を残して、泣きながら海の彼方に帰ってしまいます。この赤子をウガヤフキアエズノミコトと申します。海の宮殿に戻ってしまったトヨタマヒメではありますが、それでも、夫と自分が産んだ赤子を恋い慕う気を抑えきれず、妹のタマヨリヒメを、地上の夫のもとで子供の世話をするよう遣わします。
トヨタマヒメが妹に託した歌:
・・・赤玉は 緒さえひかれど 白玉の 君が装いし 貴くありけり
(赤子の事は、母として想わない日はありません。が、それにもまして白玉のような貴い貴方様のお姿が恋しくてなりません。)
ホオリノミコトも、自分の行動に悔いつつ、トヨタマヒメのことが愛しくてならず、返歌を詠みます:
・・・沖つ鳥 鴨着く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世のことごとに
(沖の島の鴨が来るワタツミの神の島で共に暮らした妻の事を忘れることなで出来はしない、此の世に生きている限り)
その後、ミコトは、国を治める事、五百八十年に及び、御子・ウガヤフキアエズノミコトは叔母のタマヨリヒメを娶り、生れた御子がイツセノミコト、イナヒノミコト、ミケヌノミコト、そして、ワカミケヌノミコト(カムヤマトイハレヒコノミコト)が後の神武天皇となります。(古事記上巻終)

山幸彦と豊玉姫の物語は、異界訪問譚であり、異類婚姻譚であり、見るなの座敷型の白鳥処女説話でもあるようです。
玉手箱というのがこちらで考察したようなものだとするなら、浦島太郎の、原型かどうかはわかりませんが、類話には違いなさそうです。

しかし、このときにお生まれになった鵜葦草葦不合命は、神武天皇の父君であらせられるにもかかわらず、記紀にはほとんど事績らしい事績が見られません(生涯最大の事績・業績が神武天皇の御誕生だといえば言えないこともありませんが)。

日本三大下り宮のひとつ、鵜戸神宮の主祭神は、まさにその鵜葦草葦不合命。
上の動画に登場した御乳岩や亀石など、記紀に収録されていない伝承も豊富ではあるようで、記紀の記述だけでは物足りないという向きにとっては、興味深いのではないでしょうか。

もっとも、だからといって、それらが記紀より古い時代からの土着の伝承かといえば……どうなのでしょうね?
鵜戸神宮の創建は第十代崇神天皇の御代と伝わる古社でもありますが、肇国以来十代ともなれば、事後的に伝承が変形される余地は十分にあったように思いますし、それ以後となればなおさらです。
平安時代以降は神仏習合色を強めたお宮でもあるそうですが、
鵜戸神宮:ご由緒
「今昔物語」などを見てもわかる通り、仏教勢力は布教のための物語創作(いわゆる仏教説話)に熱心でしたから、皇室ゆかりのお宮と習合したとなれば、大いにそれを活用したとしても不思議はないのではないでしょうか。
記紀の物語が地元にフィードバックされることで、補完的な伝承が新たに事後的に形成されていったということも、十分にありえそうには思えます。

そういえば宮崎には天岩戸神社天逆鉾など、記紀になぞらえて、あきらかに事後的に作られた聖地も多いようで……
皇室の日向に対する特段の思い入れというのは記紀の記述からはなかなか読み取るのが難しい気もしますが、日向の側は皇室敬慕の念を忘れることなく、神代にさかのぼる皇室とのゆかりに誇りを抱きつづけたのかもしれません。
景行天皇の征西に際しては、日向が行宮に選ばれ、御刀媛が妃に迎えられたりもしていますから、討伐対象の熊襲に比べれば、はるかに皇室に対して忠実・従順な地方だったことは間違いなさそうな気もします。あまり詳しくもないので「かもしれない」ばかり言っているととんだ墓穴を掘るかもしれませんが💦💦💦)
神社百景DVDコレクション 18号 (宮崎神宮・青島神社・鵜戸神宮) [分冊百科] (DVD付)
鵜戸さん その信仰と伝承 (みやざき文庫94)
ラベル:日向 古事記
posted by 蘇芳 at 15:24|  L 「古事記」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする