2017年02月23日

【動画】じっくり学ぼう!世界近代史 第9回「16世紀の世界  絶対主義って、何?」


チャンネルくららから「じっくり学ぼう!世界近代史」。



正しい意味での「王権神授」が本当にあるとすれば、それはおそらくキリスト教ではなく、それ以前の民族宗教に由来するものではないでしょうか。王自身が神の末裔であるなどという話も、キリスト教が侵略しまくった「未開」の世界になら普遍的に見られる「当たり前」の光景です。
キリスト教世界も結局そこへ回帰していかざるをえない、「未開」の宗教の猿まねをしなければならない、とすれば、キリスト教世界も本質的には何の進歩もしていないということでしょう。そういう認識は、日本人の目から見れば不思議でも何でもありませんが、西洋人からすればショックなのかもしれません。

ちなみに日本にも神の末裔としての皇室があり、皇祖神が皇孫に国を授ける「天壌無窮の神勅」があります。
しかして、その「王権」が世界に先駆けて「国民国家」を宣言したこと、こちらで見たように「義務」の観念によってこそ自己を規定していったこと、厩戸皇子や中大兄皇子の昔から摂関家・将軍家に至るまで政権の内実はほとんど常に「機関説」だったこと、などは、大いに注目すべきわが国体の特色であろうかと思います。

国家をまとめるために中央集権を~という議論は、ボダンの専売特許というわけでもなく、洋の東西を問わず、時代を問わず、形を変えてくりかえし主張されてきたように思います。
日本においても、こちらで書いたように、古代律令国家の成立と、明治維新は、安全保障上の必要に迫られて実施された改革、その成功した事例といえるかもしれません。
しかし、成功もあれば失敗もあり。
「昭和維新」「高度国防国家建設」などの掛け声が、ほとんど常に、共産主義勢力による内部侵略の隠れ蓑にすぎなかったことは共産主義関連記事でしばしば指摘してきたことです。
そうした昭和の「純粋」な青年たちの情念が生み出された背景に、美濃部達吉の機関説を拒絶し、上杉慎吉の天皇主権説に欺かれるような時代・世相があったことには、あらためて注目しておくべきかもしれません。
【動画】「掟破りの逆15年戦争~戦争責任とは敗戦責任である」第7回 近衛新体制と大政翼賛会
共産主義自体がキリスト教の悪魔的戯画のようなものであるとするならば、ボダンの魔女狩りと共産主義の反文明の情念もまた、血縁関係にあるのかもしれません。
それら西洋の「狂気の理性」が生みだした血まみれの専制君主と、象徴的君主たるわが皇室との差異を無化しようとする試みには、断固たる「否」を突きつけつづけなければなりません。そのための秘鍵の一つこそは、「機関説」であり「輔弼」の概念なのかもしれません。

西洋においても英国流の立憲君主の確立がいかに「名誉」であり「革命」であったか、を、思いだすべきでしょう。
そして、日本もまた英国同様、むしろ本質的には英国よりはるかに古くから、「君臨すれども統治せず」を実践していた国だということをも、同時に、思いだすべきでしょう。
帝政・王政のあるべき形をめぐる思想的営為は、洋の東西で意外とパラレルであり、それはそれだけ帝政・王政という仕組みが普遍的であることの証左でもあるのかもしれません。