2017年02月08日

【動画】「正義に燃ゆる」(病院船の歌)


作詞の西沢都弥命は靖国神社の御祭神です。


動画概要:
2016/12/10 に公開
作詩 西沢都弥

作曲 渡鏡子

歌 元日本赤十字第508救護班天応会有志

西沢都弥命は大正3年4月15日生、
日赤中央病院看護婦養成所修了後、賀陽宮大妃殿下の御付看護婦をつとめ、
昭和12年8月から14年4月までと、昭和15年12月からの2度にわたって応召、従軍しています。
最初の従軍では病院船に、二度目の従軍では中支の陸軍野戦病院に勤務。
極限状況の中、上の歌詞に見る通りの赤誠を以て、献身的看護に明け暮れられるも、ついに、自らも感染症に冒され(「チブス」「マラリア」「赤痢」を併発とも)、昭和18年6月22日、不帰の人となられました。

病床の西沢看護婦は、故郷の御母堂に、次のように書き送っています。
病院の皆様からとても手厚い看護をうけて日々快方に向つてをりますればくれぐれも御案じなさいませぬ様に、(中略)特に私のために内地では得られぬ様な食事を作つて下さいます。では皆様お元気でお暮し下さい。くわしくは暫くしたら自分で書けると思ひますのでお便り致します。
しかし実際にはこれが最後の手紙となり、しかもこの手紙自体(本文中に「暫くしたら自分で書ける」とあるように)代筆でした。
戦地の病院で、自らは筆を取ることもできない容態、
となれば、御母堂も、あるいは、察するところがあったのでは、とも思えますが……
実際の西沢看護婦の容態については、最期を看取った田村宗吉陸軍衛生軍曹が述べた「追慕の辞」に、
かつては傷病兵に陣中の美餐を供せしが病篤くなるや、御身は摂食不能とは、噫々何たる運命の皮肉でせう。
という一節もあるそうです。
「内地では得られぬ様な食事を作つて下さいます」どころの話ではありません。

母君には心配をかけまいとする一方で、実際には死期を悟っていたでしょう、同じころ、西沢看護婦は、友人に次の遺言を残したといいます。
私にもしものことがあつたなら、トランクの中に新しい白の寝衣がございますからそれをわたしに着せて下さいませ。お化粧もお忘れなくお願ひいたします。そして私の身体は東の方に向けて宮城の遥拝ができるやうにくれぐれもお頼みいたしておきます
宮城の遥拝とは、橘中佐もかくや。
血も涙もないパヨクでもないかぎり、それを、単なる決まり文句だの、「そういう時代」だった、というだけですませてよいものでもないでしょう。
戦場の医療現場という極限の状況で、傷病兵の看護に挺身し、数え切れないほどの兵を看取り続けた、西沢看護婦の強い使命感、「輝く愛の大和魂」は、彼女の残した数々の言乃葉からも、窺い知ることができます。
血に染みて ちぎれちぎれの 軍服を 脱がせつゝ我 慰めかねつ

母の御名 呼びつゝ兵の みまかりぬ アカシアの香 しるき夜更け

みまかりし 枕辺に活けし 野あざみに 祖国しのぶと 笑みたまひしに

二十八年 清く正しく 過ぎければ 今みまかるも 悔ゆることなし (辞世)
後世の知ったかぶりがさかしらにふりかざす「時代の制約」とやらがあったにせよなかったにせよ、西沢都弥命が、この極限を雄々しく生き抜かれたことは事実なのです。
まさしく「おみなといえど我もまた/輝く愛の大和魂/胸に抱きて応召の/征途につきぬ」と歌われた通りの、気高く凛々しい御生涯だった、と、言うべきではないでしょうか。

こちらでも書いた通り、靖国神社の御祭神のうち、約五万七千柱は女性の英霊です。
靖国神社とは、従軍看護婦はもちろん、樺太の電話交換手、ひめゆり部隊、対馬丸の学童などなどの御霊が鎮まる聖地でもあることを、知っておいても罰は当たらないのではないでしょうか。
人間としての心があれば……ですが。
保守速報:【産経新聞】「靖国爆発音事件 東京高裁、2審も韓国籍の無職・全昶漢被告(28)に懲役4年 『人的被害出なかったのは偶然』」

追記:
上で述べた通り、西沢看護婦は、賀陽宮大妃殿下の御付看護婦をつとめたことがありますが、二度目の従軍に際しては、同宮家からカンナ(こちらの情報によれば「波斯菊(ハルシャギク)、朝顔、葉鶏頭(ハゲイトウ)など」とも?)の種子を賜ったといいます。
靖国神社編「散華の心と鎮魂の誠―「大東亜戦争終戦五十年展」の記録 (シリーズ・ふるさと靖国)」によれば、命終焉の地、九江陸軍病院には、ちょうどその種子から咲き出た花が……とのこと。
ややレトリックめいてもいますので、真偽のほどは確かめるのが怖い気もしますが……
そうであったと思いたいと願う心は、間違ってはいない気もします。
散華の心と鎮魂の誠―「大東亜戦争終戦五十年展」の記録 (シリーズ・ふるさと靖国)
posted by 蘇芳 at 02:57|  L 靖国神社 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする