チャンネルくららから「徳川慶喜の幕末世界史」第12回。
こちらなどをはじめくりかえし書いてきましたが、薩長史観への批判というのは昔からあるにしても、薩長によって明治維新が成り、日本の対外存立が守られたという確固とした事実はあるわけです。
薩長史観を「批判」するならまだしもですが、単に薩長はこんなヒドイことをした~と情緒的に「非難」するだけでは不毛でしょう。
薩長及び薩長主導の維新を批判ないし否定したいのなら、日本の「対外存立」というこの観点に立って、維新≒体制刷新がなくてもそれが達成できた、あるいは慶喜の手によって体制刷新が可能だった、と、証明する責任があるでしょう。
個人的にはこちらで、
結局のところ、体制の刷新を経なければ、条約改正もままならなかったのですから、いずれ幕藩体制の維持は不可能になっていたでしょう。が、それはつまり、徳川300年の既得権益に手をつけるということですから、徳川自身の手によって行うのは相当に困難だったのではないでしょうか。いずれにせよ、血を流さないわけにはいかなかったのかもしれません。と、書いた通り、慶喜主導で幕藩体制を刷新することは不可能だっただろうと思いますし、動画によればそもそも慶喜にはその意思もなかったことになるようです(「徳川祖先の制度美事良法は其侭被差置き」ですから)。
では、幕藩体制のままで西洋列強の侵略から日本の対外存立を守り抜くことができたか?
結局のところ、それが焦点になるのでしょうが……
個人的には、やはりどうにも、無理な相談だったように思えます。
動画でも言われている通り、慶喜や竜馬のほうが「常識人」であり、そもそもオランダその他から国際情勢についての情報を得ていた幕府のほうが、薩長などよりはるかに正常な外交的判断をくだすことができた場面が(初めのうちは)多々あったことは事実でしょう。
開国やむなし、力をつけてから云々、という幕府の判断が、薩長の認識のはるか先を行っていたのに対して、大英帝国VS鹿児島県、などという喧嘩を本気でやってしまう薩摩隼人は、やはりどうにも「お利口ちゃん」ではありません。
「平時の外交」的には、幕府のほうが、お利口だった、ことは、間違いない。のかもしれません。
しかし、幕末から明治にかけての国難から日本の対外存立を守る、という課題は、そもそも平時のそれではありません。間違いなく有事の、すなわち軍事的課題であり、そもそも幕府が開国を余儀なくされたのも、軍事力の不足のためだったではないでしょうか。
日本の対外存立を守るためには、軍事的能力の増強が必要であり、その「能力」は、単に優れた火器や艦船の導入、兵の多寡のみを指すのではなく、軍の「体制」そのものの効率化をも包含していなければならなかったはずです。
では、幕藩体制、特にその軍制の何が問題だったのか、といえば、それが純粋な意味での「国軍」ではなく、本質的には「私兵集団の統合」にすぎなかったことではないでしょうか。
ここしばらく平安時代の記事で考えてきたことを思いだしてみましょう。
【動画】保元の乱①乱にいたるまで実際の運用は代行・輔弼の臣が務める機関説だったにせよ、律令制の建前は公地公民制でありそれは公軍・国軍の制を伴っていた(というより包含していた)はずです。「天皇の国土」「天皇の臣民」そして「天皇の軍隊」。
【動画】保元の乱②骨肉の争いと戦後処理
【動画】荘園の発達
【動画】平治の乱
【動画】奈良平安期の土地政策まとめ
しかし、やがて、荘園という私有地の発達によって、このシステムは内部から蚕食され、「私の領地」「私の領民」そして「私の兵団」が発生、従来のシステムそのものを崩壊させるに至ったように思います。
「公地公民制」は「領地領民制」にとってかわられ、国軍は私兵集団に分裂解体された、と、言ってもよいかもしれません。天皇統治の原理が八紘を一宇となすものであるとすれば、武士の台頭と共に進行した事態は、再び一宇を八紘へと分裂させるものだった、ように思います。
これに対して、やがて頼朝の天才は幕府というシステムを「発明」し、天皇の権威を利用すると同時に強化し、国家・国民の統一を回復することにはなりましたが……
かといって荘園が消滅したわけでもなければ、公地公民公軍の制がそのまま復活したわけでもありません。むしろ「本領安堵」によって荘園領主とその領地領民を公然化したのが幕府というシステムです
その軍制は、かつてのように(建前上)直接的な「天皇の軍隊」ではなく、あくまで「御家人の軍隊」を束ねた「将軍の軍隊」であり、将軍の統制が緩めば、たちどころに分裂解体する危険をはらんでいます。
話を江戸時代に戻せば、この頼朝の発明を基本的に受け継いだのが徳川であり、統制のほころびが即体制の崩壊へと発展しかねない危険性も、やはり受け継いでいるのではないでしょうか。
よく言われるように、武家諸法度をはじめとする、幕臣への徹底的な締め付けも、その「統制」を維持するためにこそ要請されたのでしょう。
しかしながら、武家諸法度や参勤交替など、「幕臣への徹底的な締め付け」を恒常化させたシステムとは、言葉を変えれば、つまり「部下の力を削ぐ」ことにばかり熱心な仕組みであり、平時はともかく、対外戦争の危機という有事において、物の役に立つものなのでしょうか?
外国の脅威に対抗するために国内の大名の力を削ぐ、というのは、愚行ではないでしょうか?
国難の時に幕府への批判が高まるのは、(それまでの統制へのウラミツラミは別にしても)、むしろ当然であるように思えます。
しかもなお、有事の最中に、そんな議論をチンタラやっている場合でしょうか?
有能なものであればあるほど、議論に見切りをつけて実力行使に走りがちになるのは、無理もないことのように思いますし、また、実際にそうなりました。
上で、大英帝国VS鹿児島県、と書きましたし、それはそれで薩摩スゴイとも言えますが、しかしそもそも、一藩が勝手に外国と戦争を始めるというその事態そのものが、将軍による統制の破綻を意味しています。
長州にしても同じことですが、この場合はなお悪いことに、二度にわたって征伐軍を起こしたにもかかわらず、幕府はもはや長州一藩を制することさえできなかったわけです(動画シリーズによれば、慶喜は詭弁を弄して勝利と言いはったようですが、国内的にはそれでよくても、虎視眈々と日本を狙う欧米列強という飢狼の群れの目に、それがどう映ったか、問われるべきはそちらでしょう)。
そこで、薩長がダダをこねたのが悪いのだ、おとなしくみんなで仲良く大樹公を中心にまとまろう、というのが、つまり、坂本龍馬たちの「良識」ある言い分だった、ということかもしれませんが……
今さらそんなきれいごとが通用するかという現実問題は別にしても、そもそも、将軍の実力が衰えればたちまち統制が緩み挑戦者が現れるという、サル山のボス猿のようなシステムそのものが、構造的な欠陥を内包しているのであり、その欠陥の克服こそが真の問題だ、とも、言えるのではないでしょうか?
つまるところ、国難の時こそ団結しなければならないのが国家・国軍というものなら、国難の時にこそ分裂解体・内部抗争の危険が高まる、という欠陥をはらんでいたのが、幕府というシステムでもあったのではないでしょうか?
動画では、このままでは清朝のようになる、とも言われていますが、この時点でのアヘン戦争はもちろん、軍制に関しては、後の日清戦争のことを考えてみてもよいように思います。
幕末の日本が「大英帝国VS鹿児島県」なら、「大日本帝国VS北洋艦隊」など、それに類する光景が(裏返しに)頻出したのが、日清戦争であり、それこそはまさに清の敗因(のひとつ)であり、日本の勝因(のひとつ)でもあったのではなかったでしょうか?
対外戦争における国軍の統制は死活問題です。
軍閥割拠し、統一がなっていないのは、現代にまでつづく支那の通弊であり、人民解放軍は人民を虐殺するための軍隊であって外国とまともに戦える軍隊ではなく、支那人の敵は常に支那人である、とは……真偽はともかくネットのあちこちでくりかえし語られている自称愛国者様の御高説ですが。
「大英帝国VS鹿児島県」を可能にした江戸幕府の軍事的現実には、実際のところ、それを嗤っていられないものがあったのではないでしょうか?
薩長による明治維新は、良くも悪くも、その死活問題の克服を成し遂げたように思いますし、だとすれば、一部の論者がさかしらに言いたがる、明治維新は不要だったとか、薩長こそが日本の敵だとかいう「説」の数々は、やはりどうにも極論暴論の域を出ていないようにも思えるのです。まあ、愚鈍な私が「常識にとらわれている」のかもしれませんが。
ラベル:「徳川慶喜の幕末世界史」 江戸時代