2017年01月20日

【動画】奈良平安期の土地政策まとめ


平安時代の記事にしてはサムネイル↑がおかしい気もしますが……私有財産が国家体制を崩壊させるというのは、はるか後世にどこかの国でくりかえされた話と、アナロジーくらいは成立するようにも思うのです。



動画では頼通には娘がいなかったとかまたテキトーなことを言っていますが。
藤原寛子を誰だと思っているのでしょうね。

延久の荘園整理令にしても、やっていることは従来と同じ、厳しくしただけ、では何の説明にもなっていませんし、わざわざ名前を付ける意味もありません。しかもその舌の根も乾かないうちに「目代」など従来とは異なる新しい仕組みが登場したりもして支離滅裂。

まあ、「教科書歴史」などというのは、その程度、ということで。
あくまで話半分・参考程度に見ておきましょうというところでしょうか。

土地私有制と税制の変化が、公地公民制を崩壊させたことは、大雑把な流れとして、間違いではないのでしょう。
すでにこちらなどで考察したように、公地公民制とは、公軍・国軍の制を伴うものでもあり、それが分裂して私領・私領民が発生していくとき、私兵の発生をも随伴させることは、ほぼ必然だったように思います。
「公地」は「私」の「領地」に、
「公民」は「私」の「領民」に、
「公軍」は「私」の「兵団」に、
すべてが見事に分裂・崩壊・転換していったのだとすれば、律令国家の「公地公民制」に対して、「領地領民制」こそが封建国家の本質的制度であるというべきなのかもしれません。

この体制崩壊の経緯は、行き詰まった共産主義国家が、計画経済を断念し、市場経済の「部分的」導入に踏み切った結果、国家体制の崩壊に至る過程を、ふと、思い起こさせます。
私有財産の禁止とは、資本主義の超克でもなんでもなく、要は公地公民制という「前近代」どころか「古代」への回帰にすぎず、しかも、こちらなどでみたように君主の神聖性を根本的に否定する共産カルトによっては、その回帰は常に最悪の専制独裁への回帰以外の何物でもありえない、のではないでしょうか。
共産カルトのもたらすものが文明の「進歩」どころか常に野蛮と暴力への「退歩」でしかありえないことも、けだし当然というべきでしょう。
そしてその「退歩」した体制が、再び、私有財産の復活によって否定されるというのなら、資本主義こそが社会主義・共産主義より「進歩」した体制であるということにもなってしまいそうです(それとも単に「歴史は繰り返す」と言っておくべきでしょうか?)。

ところで、「公地公民」が崩壊して「領地領民」が発生したとして、前者を律令「国家」と呼ぶにしても、後者はそのままでは封建「国家」たりえないことは明白です。
律令国家が崩壊した結果、複数の「領主」の所有する「領地領民」がバラバラに雑居・並存するだけに終わっては、要するに「群雄割拠」という「状態」であるにすぎず、「国家」という統一体を形成しているとは言いがたいでしょう。
源平合戦や戦国乱世とは、そのような「状態」のことを言うのであり、その状況下では、極端な話、それぞれの領主・領地が、分裂し分立したまま、それぞれに別個の「国家」を形成するということも、可能性としてはありえたように思います。実際、奥州藤原氏などは、三代にわたって、それに近い状態を達成したとも言えるのかもしれませんし、世界史的に見れば、ある国家の滅亡に伴って分離・建国された国々というのは、珍しくもないでしょう。
しかし、結局のところ、日本がそのような分裂に陥ることは、総体としては、ありませんでした。

欧州がローマ帝国の統一を取り戻すことは決してありませんでしたが、日本は逆に、神武建国以来の統一をこそ失うことがなかった。
カエサルの子孫、それどころかアガメムノンの子孫が君臨しつづけている、ようなものだ、などと譬えれば、欧州人は腰を抜かしてもおかしくありませんが、それが日本のまごうかたなき現実です。
なぜそうなったのかについては、もちろん、さまざまな要因があるのでしょうが、一つには、ローマ帝国の崩壊は単に世俗の政治体制の崩壊であるにとどまらず、宗教的秩序の崩壊でもあったことがすぐに思い当たります。
キリスト教にとって、カエサルの血統や、異教の帝国の統一を回復することに、何の意味があるでしょうか。強大な帝国を形成するより、小国のまま割拠しつづけてくれたほうが、精神的に支配しやすいともいえるかもしれません。

しかし日本においては、崩壊したのは神武肇国の精神ではなく、あくまでも大陸から輸入した律令体制のみであって、天皇・皇室の求心力・権威自体は、なおまだ有効であり続けていたのではないでしょうか。
公地公民制・律令国家がすでに事実上崩壊していてもなお、平家は天皇の外戚として「国政」をほしいままにしようと、旧態依然の観念を保持し続けたのですし、平家を倒した頼朝が、天皇の権威にすがって幕府の「公」性を回復したことは、こちらなどで考察した通り。
後世のいわゆる戦国時代においてさえ、群雄は、守だの介だのを名乗りながら、しきりに「上洛」を目指したのでしたし、実際に天下統一を成し遂げた者たちも、(内心の本気度に差はあれど)、天皇の臣下としての分を超えることは、ついにありませんでした。
しかも、清盛や頼朝などは、掛け値なしに皇室の末裔でもありましたし、後世の天下人もしばしば怪しい系図を偽造してまでも、源氏その他名家名門の末裔を名乗り続けたことも、中心的権威としての天皇・皇室がなお有効に機能しつづけていたことの証左でもあるでしょう(※日本において名家名門を名乗ることの意味についてはこちらも参照)
ローマ帝国からの「分離」どころか、天下の「統一」こそを志向しつづけたのが、日本における「領主」たちの情念でした。

こちらで考察したように、「八紘一宇」が国民国家統一の理念であるとすれば、その理念の正当性を見失わず保持し続けることによって、国家崩壊の危機に見舞われた時にも、国家国民のあるべき形をくりかえし見定めなおすことができる。
それは日本歴史の優れた特性であり、皇室の尊さありがたさの、実利的一面そのものでもあります。
実際、明治維新は、幕末の思想家たちによる、その精神の再発見に負うところが大きかったことは、誰しも認めうるところではないでしょうか。

しかしながら、明治維新のあとも、なお、「大正維新」や「昭和維新」がくりかえし呼号されつづけてきたこと、こちらなどで確認した思想的混乱のカオスの中にあって、しばしば、というよりほとんど常に、それらの掛け声が、反社会勢力≒共産主義者に利用されてきた形跡があることも、忘れてはならないことのように思います。
「一君万民の社会主義天皇制を念願したことは、意識すると否とに拘らず明白な事実である。国家統制経済を採用し、農魚山村経済に力を注ぎ、その疲弊を救う」(『別冊知性』昭和三一年一二月号 河出書房)
世界最古・最長の万世一系の王朝は、それが神聖にして不可侵であればあるほど、共産主義の簒奪の欲望にとって、最大級の垂涎の的であるに違いありませんし、その簒奪の野望のためならば「『悪魔とその祖母』とさえ妥協することを能く」する共産主義者が、いかなる途方もない虚偽を弄してもおかしくはありません。
そして、残念ながら、皇室を素朴に崇拝する素朴な愛国者であればあるほど、その虚偽に欺かれやすかった、そんな可能性もあるのではないでしょうか?
こちらで考察したように、公地公民制律令国家もまた、日本においては「天皇機関説」によって運営されたのであって、上杉慎吉の耳触りの良い扇動(天皇主権説)こそが国柄の伝統に反していたことは、いくら強調しても強調しすぎることはない、国体の秘密のひとつであるように思います。
それは、偽装した専制独裁にすぎない共産主義と、わが国体との、見極めが難しい、けれど決定的な差異でもあったはずではないでしょうか。

戦後70年、ようやく、戦後レジームへの反撃の端緒についた現在。
戦前も戦後も、日本や米国の「敵」が常に同じアレらでありつづけているとするならば……
贋金と正金を見極める能力が、今度こそ、あらためて、問われているのかもしれません。
posted by 蘇芳 at 16:03| 平安時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする