2017年01月08日

【動画】やすくにの



動画概要:
2015/06/01 に公開
作歌 大江一二三
作曲 信時潔
昭和18年(1943年)
昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本:英霊の遺書や手紙・遺品4 お母さん、お母さん、お母さん・・・・・
泣ける・感動2ちゃんねるまとめ:北支へ出征した立山英夫中尉は昭和12年夏、戦死された。血塗れの軍服からは母親の写真が見つかった。裏面には母を想う中尉の言葉が記されていた

陸軍歩兵中尉 立山英夫命は昭和十二年八月二十二日支那河北省辛荘付近にて戦死。
その軍服のポケットには、御母堂の写真があり、その裏には母を思う長歌が認められていました。
その最後には「お母さん、お母さん、お母さん……」と二十四回もくりかえし書かれていたといいます。
「いいます」というか……その実物の画像は、いくつかの書籍でも、インターネット上でも見ることができます(※画像検索)。
見ていると、たまらないものがこみ上げてくる文面です。

後世の私たちでさえそうなのです。
いわんや、当時の直接の知人たちにおいてをや。

立山中尉の遺品を見た上官の大江一二三大佐は、後日、中尉の葬儀に際して弔電を打った、その文面が、
靖國の 宮にみたまは 鎮もるも をりをりかへれ 母の夢路に
だったといいます。
この弔歌は、海ゆかばをはじめとする数々の名曲で知られる信時潔によって作曲され、人々に愛唱されたとか。

昭和十二年といえば、8月13日には第二次上海事変が勃発していました。風雲急を告げていたことは確かですが、事態はまだまだ支那事変。対米開戦のはるか手間の時期ではあります。
一人一人の散華をゆっくり、じっくり、悼んでいられるだけの、ある意味「余裕」は、まだあったのかもしれません。

しかし、その後、戦線が拡大してゆくにつれて、さらに多くの若き英霊たちが、故郷の家族を思いながら散華されたことでしょう。やがて米国が参戦し、ミッドウェイやガダルカナルを境に敗色が濃くなっていけば、その犠牲も幾何級数的に増えていったことでしょう。「余裕」は少しずつ摩り減っていったのではないでしょうか。

上の概要にある「昭和18年(1943年)」といえば、ついに学徒出陣が始まった年でした。
「お母さん、お母さん、お母さん……」
それはいわば無数の「立山中尉たち」の行進だったのかもしれません。
当初は一個人に対する弔歌だったこの歌も、その行進を前にしては、いつしか、具体的な作歌の状況を離れて、もっと大きな、象徴的な、運命的な響きをも獲得していくことになったのではないでしょうか。

時が流れたからと言って、忘れ去られてよい歌ではないように思います。
やすくにの祈り―目で見る明治・大正・昭和・平成
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posted by 蘇芳 at 03:55|  L 靖国神社 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする