2017年01月06日

【動画】保元の乱①乱にいたるまで


こちらと同じ動画シリーズの1本ですが……💧
さすが受験用というか日教組御用達というか。皇室のドロドロは女性週刊誌の捏造ゴシップ並みに嬉しそうに丁寧にやっていますが、摂関家については肝心のところがテキトーですね。
動画でいうなら7:30くらいからでしょうか、「頼長さんという藤原氏の子供」とか言っていますが……素直に「弟」と言えばすむ話だと思うのは私だけでしょうか?
まあ、それでも、他に手ごろな動画も見つからないようなので、見るだけ見ておきます。詳細は他のソースで補足しながら見てくださいというところでしょうか。


wiki:
藤原忠実
藤原忠通
藤原頼長

藤原サイドの血縁関係を整理しておきますと、まず、藤原忠実が父。忠通と頼長がその息子で、長男と次男。要するに兄弟です。忠通は弟を養子にしたことになります。その背景には父の薦めというか意向というかもあったらしく、忠実は頼長のほうをやたら贔屓にしていたらしいとか、いろいろ言われているようですが……
細かいことを置いておいて、構図だけを見てみると、
弟を養子にしたら、後から実子が生まれたので、喧嘩になった、という……
これは要するに応仁の乱の将軍家と同じ構図ではないでしょうか?
摂関家といい将軍家といい、要するに、天皇を輔弼すべき一の臣下ですが……その両者が時を隔てて似たような身内争いの結果没落していくというのなら、まさに歴史はくりかえすというべきかもしれません。

動画では皇室の「ドロドロ」のほうが詳しいですし、鳥羽天皇が「噂」をお信じになって、崇徳天皇を「叔父児」とお呼びになっていたなどという話も、確かにあるにはあるようですが……
皇室だけが「ドロドロ」していただけだったなら、おそらく、武力抗争にまで発展することはなかったでしょう。
摂関家がしっかりしてさえいれば、皇室内の対立を、どうにか穏便にすませていただけるよう働きかけることもできたかもしれませんし、そもそも輔弼の臣下としてはそうすべきだったはずではないでしょうか。
皇室内の対立を解決するどころか煽り立てた摂関家の責任は重大であると思います。

しかしまた一方で、摂関家だけが「ドロドロ」していただけで、御皇室はしっかりしてくださっていたのであれば、やはり、どこかで歯止めをかけることはできたのかもしれません。
実際、摂関家が身内同士・兄弟同士で喧嘩をするのはこの時に始まったことではなく、これまでも何度もくりかえされてきた光景で、兼通・兼家、道隆・道兼などを挙げるまでもなく、仲睦まじかった兄弟のほうが珍しいくらいだったでしょう。
それでも身内同士の武力衝突にまではそうそう発展しなかったのが、これまでの平安京の歴史でした。

皇室と摂関家、それぞれの身内争いが、相互に絡み合って、相乗効果によって激化していった、という事情を、とりあえず押さえておく必要がありそうです。
しかし、また、いかに相互に反目しあったとしても、それぞれに動員可能な兵力がなければ、武力行使への発展は、なおまだ不可能だったでしょう。

この時代に現実的に動員可能だったかどうかはさておいて、律令制下においても、一応、軍事機構はあったはずでしょう。しかし、天皇・上皇・摂政・関白・左右大臣などなどが律令制下の正規の兵力を動員するというのは、普通に考えれば国家的な一大事≒対外戦争や反乱の鎮圧を想定した仕組みです。国軍は国家の敵を討つためのもの。皇族同士、大臣同士の身内争い≒私闘という場面に、おいそれと動員できるものでもすべきものでもないでしょう(そもそも一枚岩の国軍を動員できるということは、国家を掌握しているということですから、それができるくらいなら国家を「二分」する内戦など最初から起きえないでしょう)。

しかし、もしも、本来の国家的な兵制とは別の、「私兵」集団が存在し、対立抗争するそれぞれの派閥が、それらを私的に動員できるのなら、話は別です。
そして、承平天慶の乱前九年の役・後三年の役を通じて台頭してきた「武士」こそは、まさにそうした、律令制とは異質な原理によって統制された、私兵集団に他ならなかったのではなかったでしょうか。

つまるところ、皇室や摂関家の身内争いという、ある意味、「いつものこと」が、この時に限って、保元の乱にまで発展し、ついには平安時代の終焉にまで結びついていった、その背景には、武士団≒私兵集団の存在があったのでしょうし、それら私兵集団の存在を可能ならしめた遠因には、こちらで見た人から土地へという税制の改革がかかわっていたのではなかったでしょうか。
その改革の結果、土地さえあれば人口動態に関係なく税収が確保できるようになり、それが平安貴族の栄耀栄華を支えましたが……それは同時に、税収さえ確保できれば中央は地方の事情に深く容喙しない、する必要がない、ということでもあり、今でいう地方分権をなし崩し的に促進することにもなったように思えるのです。
物語日本史(中) (講談社学術文庫)
保元物語 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
消された政治家・菅原道真 (文春新書)


追記:
「私兵」の台頭とは、同時に、要するに、「国軍」の崩壊をも意味しているように思えます。

勝てば官軍、と言いますが……
逆に言えば、勝たなければ官軍ではない。
勝敗が決しないうちは、官軍も賊軍もない。
何となれば、「国家」が分裂しているのなら、「国家の軍隊」もまた存在しえない、わけで……
「国家」が「国家の軍隊」を動員して「国家の敵」と戦うという、最初から最後まで国家の輪郭が明確な対外戦争とは根本的に異なる、それが内戦というものなのでしょう。

つまるところ、国家の分裂とは国軍の分裂であり、国家の統一とは国軍の統帥であり、要するに「天下布武」こそが万古不易の建国のリアリズムというものなのかもしれません。
それはおそらく、あたりまえといえばあたりまえの話なのでしょうか、戦後パヨクの似非平和主義は、そのあたりの現実をごまかしつづけてきたようにも思うのです。

だから、確認しておきましょう。

こちらで見たように、律令制の始まりには、唐からの侵略の危機、軍事的緊張がありました。対外戦争の危機の中で国民国家の自覚が高まり、史上初の「愛国」の物語さえ生まれました。律令国家の成立とは、律令的安全保障体制の成立をも意味していたのではないでしょうか。
だとすれば、律令制の崩壊とは、まさにその「律令的安全保障体制」の崩壊(=武士団という私兵集団の台頭による、「国軍」の崩壊)を意味していたことにもなるでしょう。
となれば、その後、武家の政権が成立するためには、今度はそれら私兵集団の集合体を、再び一本の命令系統に服する国軍として再編する必要があったはずではないでしょうか。その再編を可能にしたのが、征夷大将軍による、統帥権の掌握≒幕府というシステムだったのかもしれません。
このシステムが曲がりなりにも健全に機能している限り、元寇の勝利に見るように、全国の武士団≒私兵集団は、「国軍」として機能することが可能だったように思います。
ということはつまり、幕府のタガが緩んでくれば、その私兵集団の集合体としての国軍は、再び、分裂していくことになったはずです。
(実際、上でその名だけ言及しておいた応仁の乱は、将軍家の身内争いが、山名・細川の二大勢力を「私兵」として使うことで、国軍の統帥を自ら分裂・崩壊させていく悲喜劇だったのではないでしょうか)
軍事力の裏付けを持たない国家などありえず、国家の再編は軍事力の再編を意味し、軍事力の再編とは要するに武力抗争を伴う。
鎌倉にせよ室町にせよ徳川にせよ、幕府の崩壊とはそういう内戦の光景を伴うものでしかありえなかったのは、「国家」の存立基盤のひとつが武力に他ならないからではなかったでしょうか。
そうした冷厳な事実もまた、見落とすべからざる歴史の教訓であるように思います。

しかして、また、わが日本においては、そうした内戦の光景の中に、くりかえし翻ってきた「錦の御旗」があり、それが全国的な国軍の統率を、新たに、再び、可能にしてきた、ということも、忘るべからざる歴史の特性ではないでしょうか。
院政期の「ドロドロ」は確かに褒められた話ではありませんが……天皇・皇室の本質は、そうした個々の天皇・上皇の人間的な御苦悩を超越したところに、屹立し、燦然と輝いていると認識すべきかと思います。
ラベル:平安時代
posted by 蘇芳 at 22:32| 平安時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする