2017年01月05日

【動画】院政はなぜ始まったのか?


とりあえず、保元の乱へつづく状況の整理としては、院政を避けては通れないでしょうから、多少なりともわかりやすそうな動画を一本見ておこうと思いますが……
わりと学生向けというか受験用というか、つまるところ「通説」的な動画のようですから、左翼的歪曲の可能性にも多少の注意が必要かもしれません。
個人的には白河天皇について語りながら「山法師」への言及が皆無なのが胡散臭い気もしますが……しかし、まあ、仏教への言及がないということは、天皇の有名なお言葉を曲解することもできないということですから、天皇をパヨク的「専制君主」に仕立てあげる歪曲とは無縁ではありそうです?
wiki:白河天皇 > 天下三不如意
まあ、ちょっと眉に唾をつけながら、見ておきましょうか。



後三条天皇といえば、頼山陽や平泉澄が高く「評価」しているのを読んだ記憶がありますし、
少年日本史 (平泉澄):後三条天皇
鎌倉期の説話集も「延久の善政」を称えるなど、英主であらせられたこと、もっと言うなら優れた「政治家」でいらっしゃったことは、事実なのでしょう(天皇が「政治家」であらせられることの是非はともかくとして)。
しかし、残念ながら、若くして(40歳?)お隠れになり、改革も道半ばで頓挫したようです。

その跡をうけて践祚あそばされたのが第72代白河天皇であらせられますが。
動画では摂関家のことしか言及されていませんが、白河天皇といえば、まず真っ先に思い浮かぶ、非常に人口に膾炙したお言葉・名言が伝わっているはずでしょう。
すなわち、
賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの
です。
あくまで出典が「平家物語」なので、エピソードの真実性には疑問も残りますが、この時代、叡山をはじめとする僧侶が、ひどく荒ぶっていたこと自体は、間違いのない史実でしょう。
 その頃、人々の心を暗くしたものは、末法思想でした。これは仏教で立てている時代 のわけ方で、釈迦の入滅以後千年の間は正法の時代、次の千年は像法の時代、最後の万 年は末法の時代と云い、正法時代には、仏の教も残り、それに従って行をする者もあり 、行をすれば悟を開く事が出来たが、像法になると、教と行とはまだあるが、もはや悟 を開く事は出来ない、末法に入ると、残っているのは教のみで、行もなく、悟も無いと 云うのです。時代の下るに随って、人間の精神も堕落して、修養の努力をする者も無い が、かりに努力しても無駄で、恐ろしい動物的本能、はげしい憎しみあい、はてしなく 続く闘争、この世ながらの地獄の生活に入るのだと云う、恐ろしい運命観です。
 おまけに之を実証してくれたのが、叡山や三井寺、興福寺などの乱暴です。僧侶と云 う者、もともと仏に仕えつつ学問をはげみ、世の人々を善導するのが本務の筈です。そ れが修行や学問をやめて、腰に刀を帯び、手に薙刀を持って、人を殺し、寺を焼くとな れば、いかにもこれは末法濁世だと思われたでしょう。たとえば白河天皇の永保元年三 月、興福寺の大衆数千人、多武峯を襲撃して、麓の人家三百あまりを焼きました。四月 には三井寺の大衆、数百の兵をひきいて、叡山の麓、日吉神社を襲います。之を見て叡 山黙っていない、数千の兵を繰り出して三井寺に迫る。四月には睨みあいで済みました が、六月九日になって叡山の僧徒数千人、武装して三井寺を攻め、火をつけて焼き払い ました。堂塔百十八、神社四、僧房六百二十一、舎宅千四百九十三、以上焼失。印度・支 那・日本三国の仏教史において未曽有の事だと、人々は歎きました。九月になって三井寺 から叡山へ報復に行く。之に怒った叡山は、九月十五日またまた三井寺を攻めて、前の 戦いに焼け残った堂塔、神社、僧房、舎宅を焼き払いました。
少年日本史 (平泉澄):院政
白河天皇が手を焼いておいでになったのは、動画がやたらに重視する藤原氏ではなく、仏教勢力だった、と、広く一般大衆に受け入れられた「物語」が語り伝えているということは、簡単に無視してよいことではないように思います。

そもそも、動画で重視されている摂関家は、道長の法成寺、頼通の平等院、などを挙げるまでもなく、仏教勢力と深く通じてもいたのではなかったでしょうか。
話は後三条天皇の御代に戻りますが、当時、興福寺は教通の監督下にあったそうで、その興福寺と大和の国司との間に係争が起こり、天皇直々の御裁可を仰ぐまでに発展したことがあるといいます。
しかして、英主・後三条天皇が国司側の勝訴と御裁可あそばされたところ、
教通憤慨して即座に起ちあがり、一門の公卿を引きつれて、退出してしまいました。天皇もお困りになって、またまた裁判をやり直し、興福寺の勝訴とされました。
というありさま。
摂関家の増長でもあり、寺院勢力の増長でもあり……そしてこの両者は共に大荘園の所有者ですから、後三条天皇の改革に抵抗すべく共闘する動機も共有しています。
後三条天皇がいかな名君であらせられたとしても、荘園整理が中途半端に挫折せざるをえなかったことは、無理もなかったと申し上げるべきでしょうか。

しかしながら、当ブログではくりかえし述べてきたように、藤原氏というのは、元をただせば天皇を輔弼申し上げるべく神勅を賜った天児屋根命を祖とする神祇氏族であったはずです。
一方の仏教勢力にしても、平安遷都後の仏教、特に直接的に「山法師」そのものでもある叡山・三井寺の天台宗というのは、桓武天皇の大御心によって、南都仏教の腐敗に対抗すべく要請された国体護持勢力であるべきはずだったのではないでしょうか。
もっというなら、天台宗は、イコール、山王神道ですらあったはずです(神仏習合「自性清浄」と「現世利益」)。

その両者がこのありさま、というのでは……(自身が神道家でもある平泉澄の言うことをただちに鵜呑みにするのも一方的ではあるかもしれませんが)、国体護持勢力の「堕落」を嘆きたくなる気持ちも、わからないではありません。
動画の最後で言われている「ドロドロした人間関係」を、ざっくりまとめてしまえば、摂関家の兄弟喧嘩と皇室の兄弟喧嘩のコンボともいうべき状況であって……畏れ多くも皇室さえその「堕落」から完全には無縁でいらっしゃれなかったのかもしれない、となれば、なおさらです。

もちろん、その「堕落」の原因として、末法思想が、平泉澄のいうほどに決定的な猛威を振るったのかどうなのか、少々断定しかねる気もしますが……平安時代の文芸の中で事あるごとに「末法」「末の世」が言及されているのは事実ですから、時代の「気分」としては、何がしかの影響はあったのかもしれませんね。。。
(個人的には、奈良時代にくらべればマシになったとはいえ、平安時代の神仏習合も、「神道の仏教化」をもたらしただけであって、「仏教の神道化」には、まだまだ、たどり着いていなかった、と、言ってみたい気もします)
ラベル:平安時代 仏教
posted by 蘇芳 at 02:23| 平安時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする