2016年12月06日

不完全性をめぐって


こちらで、
それがユダヤ・キリスト教の妄想するような全知全能の「偉大」な神ならば、卑小な人間が小賢しく守ってやる必要などないでしょう。
と書きました。
また、唯一絶対全知全能の神という小児的妄想が、容易に、運命決定論の自家撞着に陥ることは、こちらでも考察しました。
神皇正統記」を読んでいると、あらためて、こうした小児的で醜悪な全知全能の完全性を拒否することが、神道にとって決定的に重要であるように思えてきます。

「神皇正統記」は、
日本はかくある「べき」だ、
臣民はかくある「べき」だ、
と、主張して、後世に大きな影響を与えました。
その功績はどれだけ評価してもしすぎることはありません。

しかし、理想と現実が食い違うことなど、いくらでもあります。
いくら口でかくある「べき」だと叫んだところで、目の前の現実はそうはなっていない。
正統な南朝の天皇は京を追われたまい、正統の天皇に臣従すべき臣下たちは天皇を裏切り、軽んじる逆賊の元に馳せ参じている。数少ない尊皇誠忠の士は賊軍のために次々に討ち死にし、かくいう親房自身、賊軍の包囲を受けて風前の灯。
当時、親房は結城親朝に「六十七回」にもわたって親書を送り、「大義」を説いて援兵を求めたといいますが、恩賞任官等の実利を絶対条件とする結城は、空理空論的大義のためになど決して起とうとはしませんでした。南朝方の敗色、日を追って濃ければ、なおのことです。

このような理想と現実の相克に対しては、洋の東西を問わず、あらゆる思想・信仰が、解釈・回答を迫られ、試されたことでしょう。
しかし、全知全能の神を設定し、運命決定論に陥ったカルト的思想を以てしては、この相克に対して、大雑把に言って、二種類の回答しか持ちえないのではないでしょうか。

一つは、現状の追認です。
この世のすべてが全知全能の「神」の意思ならば、現状こそが「神」の意思によってかくあらしめられている「正しい」状態であることになります。
たとえその現状が気に入らなかったとしても、何せそれが神意であり天意であるというのですから、こちらで親房自身が「末法思想」に逃避していたように、決定論的運命を嘆くぐらいしか、できることはありません。

さすがにそれはあんまりだ、というのなら、もう一つの「回答」は、神の意思の真の発現・成就を、遠い将来に投射し、不如意な現在を一時的な現象にすぎないと強弁することでしょう。
「神が試練をお与えになっている」「正義は(いつか)勝つ」などなど。

「神皇正統記」における親房もまた、
功もなく徳もなきぬす人世におごりて、四とせ餘がほど宸襟をなやまし、御世をすぐさせ給ぬれば、御怨念の末むなしく侍りなんや。今の御門また天照太神よりこのかたの正統をうけましましぬれば、この御光にあらそひたてまつる者やはあるべき。中中かくてしづまるべき時の運とぞおぼえ侍る。
と、最後の最後に叫んでいます。
ここ「四とせ」ばかりは確かに一時的に「功もなく徳もなきぬす人」が驕り高ぶっているものの、正統の帝は正統であらせられるがゆえに、ついにはその「御光にあらそひたてまつる者」もなく、世の中は「かくてしづまるべき」はずである、それが「時の運」というものである、と……

親房としては他に言いようもなかったでしょう。
が、いかにも負け惜しみめいてはいないでしょうか。

そもそも、遠い将来に究極の勝利がやってくることが全知全能の神の意思としてすでに決定されているのなら、その状況で、人間が何か努力する必要があるでしょうか?
足利がどうあがいても、どうせ最後には南朝が勝つというのなら、何も命をかけて戦う必要などないのではありませんか?
全知全能のカミサマがどうせ最後にはそうなるように仕組んでいるというのなら、足利があがくことも無意味なら、北畠や楠や新田があがくことも、同じように無意味になってしまうのではないでしょうか。
親房の「天」の思想は、こちらで考察した、唯一神のアポリアを、わざわざ日本に導入するカラゴコロの罠に陥っているように思えます。

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・共産主義などなど、人類に多大な厄をもたらした小児的カルト宗教を以てしては、このアポリアの解決はありえません。

しかし幸いにして、神道の神々は、唯一絶対などという小児的で醜悪な完全性を主張も要求もしていません。
豊受大神は、天照大神のお食事のために招かれた御饌津神であり、食の神、衣食住の神、諸産業の神であるに「すぎず」、よしんば渡会神道が主張するように豊受大神が天御中主神であったとしても、天御中主神は天地の初発と同時に「出現」されただけであって、世界を「創造」した全知全能の造物主というわけでは(記紀を素直に読めば)ありません。
つまるところ、日本の神々は、過去現在未来の神羅万象一切の運命をあらかじめ決定できるほどに「完全」でも「全知」でも「全能」でもありません。
全知全能を要求しないこの謙虚な神々の美しい不完全性は、かえって、運命決定論の牢獄から、人間を解き放つことを可能にするのではないでしょうか。

唯一神への信仰は、未来における神の意思の成就を「予言」します(最後の審判、千年王国から、富士山の噴火(笑)に至るまで)。
それは、あらかじめそう「なる」ことが、絶対者たる神によって定められている決定事項の通達にすぎません。
神道にこのような「予言」はありません。
神道にあるのは「神勅」であり、すなわち神の「命令」です。
「命令」ですから、それは放っておけばそう「なる」というものではなく、命令を承った臣下たちが、努力して実行「する」必要があります。
別の言い方をするなら、臣下がその命令に背いて従わないなら、「命令」は決して実現しないのです。
(実際、天孫降臨に先立って、天照大神が地上に使わされた天稚彦などは、大御神の命令に背いています)
放っておいても、逆らっても、泣いても喚いても、必ず実現すると言いはる「予言」の確実性に対して、「命令」の不確実性は、明確かつ本質的な差異を構成します。
そんな不確実な世界は頼りないと感じるでしょうか? そんな不完全な神など弱っちいと思うでしょうか?
しかし、この不確実性・不完全性こそ、かえって、自由意思の存在をその根底において保証するものでもあるのではないでしょうか。

「神皇正統記」に戻りましょう。
親房が決定論的な「天」の思想に固執するならば、はてしなく現状を追認するか、「いつか」勝つと負け惜しみを言うしか、なくなります。
しかし、そこに決定論的運命が存在しないとすれば、人の「意思」や「努力」によって、現状を変更する余地が生じてきます。

冒頭で述べたように、「神皇正統記」は、日本はかくある「べき」だ、臣民はかくある「べき」だ、と、主張して、後世に大きな影響を与えましたが……
そんな「影響」を与えることが可能だったということ自体が、唯一絶対の神の意思によって勝手にそう「なった」という以上に、価値あることだというべきではないでしょうか?

足利幕府は常に反乱に悩まされる不安定な政権であり、応仁の乱で事実上終焉を迎えた後は、戦国乱世という無秩序状態をさえ現出しました。下は上に倣うのが世の常とすれば、足利以外の諸大名も、反乱・下剋上に苦しめられ続けたのが実情でしょう。室町時代の歴史は、あらゆる「主家」が次々に没落していく過程だったとも言えます。
この状況に、幕臣たち自身がやがて疑問を抱くことになっても、不思議ではありません。なぜこうも世の中が乱れているのか? この現状はおかしいのではないか? 現状のほうがおかしいとすれば、では、実際には、世の中はどうある「べき」なのか? と。
そのとき、北畠親房の、日本はかくある「べき」だ、臣民はかくある「べき」だ、という「主張」こそは、干天の慈雨のごとく響きえたのではなかったでしょうか。

親房が本を書くことによって、他人の考えを変えることができる。少なくともその可能性がある。
そうして親房に共鳴して誕生した尊皇家たちの「意思」と「努力」によって、ついには、足利幕府の打倒さえも可能になりうる。
天意ではなく(少なくとも天意だけではなく)、人間の「意思」と「努力」によって現状を変えることができるし、人間の「意思」と「努力」を以てしなければ、現状を変えることはできない……
この考え方は、数多くの思想家をして自由意思の存在をめぐって発狂せしめた一神教流の運命決定論的アポリアより、はるかに健全かつ建設的であるように思えます。

もちろん、時運がそのように展開したこと自体を「天」意である、「正義は(いつか}勝つ」というその「いつか」の成就である、と、決定論的に主張することもできるかもしれませんが……
しかし、それはやはり、単なるレトリックにすぎず、また、結果から歴史を見るという危険な誘惑にすぎないように思えます。

全知でも全能でもない不完全な神々の意思にもとづく命令の実行は、人間自身の意思と努力に委ねられている。かくしてこそ、人間の自由と同時に「責任」もまた重大となり、神々に対する人間の責任は、天皇に対する臣下の責任のモデルとなり……君民共治の国柄の実現へ向けて積み重ねられてきた過去の歴史の尊さも、未来への指針も汲み取ることが可能になるのではないでしょうか。

現代のリアルタイムの「戦場」においてもまた、愛国者の勝利があらかじめ決まっていると「安心」していていいわけはないでしょう。国体を護持せよという至上の命題を実現できるか否かは、私たち臣下の意思と努力にかかっている、と、やはり、考え、兜の緒を締めなおすべきであるように思えるのです。
神皇正統記 (岩波文庫)
posted by 蘇芳 at 16:33| 南北朝・室町時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする