2016年12月05日

北畠親房の仁賢天皇評


北畠親房の「神皇正統記」は、
日本はかくある「べき」だ、
臣民はかくある「べき」だ、
と、主張して、後世に大きな影響を与えました。
その功績はどれだけ評価してもしすぎることはありません。

しかしながら、「主張」はさておき、そこで提示されている「事実」に関しては、相当な与太が混入していることも事実です。もちろん、単なる「間違い」の類であるかもしれません。しかし、彼の特殊な思想的立場から逆算して、そこに意図的な「歪曲」が潜んでいる可能性も、一応は検討してみる必要があるように思います。

「神皇正統記」には、古代史について次のような記述があります。
第二十五代、仁賢天皇は顕宗同母の御兄也。雄略の我父をころし給しことをうらみて、「御陵をほりて御屍をはづかしめん」との給しを、顕宗いさめましまししによりて、徳のをよばざることをはぢて、顕宗をさきだて給けり。
記紀の読者なら唖然とするしかないでしょう。デタラメにもほどがあります。
こちらで書いた通り、仁賢天皇が顕宗天皇を「さきだて」られるのは、勅使の前で真の身分を明かされたときのことが理由ですし、御陵の件はご兄弟の立場がまったくの正反対です。少なくとも、堂々たる日本の「正史」はそう伝えています。
それをこうもはなはだしく真っ向から否定し去るというのなら、そうするに足るだけの根拠・論拠を提示する責任が発生しますが、親房がそんな責任を果たすことは一切ありません。
いったいこれは何事でしょうか?
こんな誹謗中傷で仁賢天皇を貶めなければならない、どのような正当な理由があるというのでしょうか?
他の誰でもない天皇陛下に対し奉ってかくも恥知らずな誹謗中傷をあえてなす北畠親房は、本当に、近代の尊皇家が無邪気に主張するような尊皇の志士と呼ぶに値するのでしょうか?
少し、立ち止まって考えてみたほうが良いのではないでしょうか。

上の事例が、確固とした新史料に基づく新説、というのならもちろん話は別ですが……
親房がそのような資料や証拠や論拠を示すことなどは一切ありません。
それでは、単なる「誤解」や「混同」や「間違い」の類だったのでしょうか?
敗色濃厚な戦陣のただなかという特殊な執筆状況からすれば、そういうことも大いにありうることではあるでしょう。
しかし、やはり、一度は、意図的な歪曲を疑ってみるべきではないでしょうか。
なぜか?
キーワードは「雄略天皇」と「渡会神道」です。

こちらこちらで書いた通り、親房は渡会神道に深く傾倒し、その影響が、彼の思考を大いに助けたであろうと同時に、その特殊で未完成な神道思想が、彼を論理の袋小路に追い込んでいるようにも思えます。
その渡会神道にとって、特別な地位を占めておいでになる天皇が、実に、雄略天皇です。
というのも、こちらで書いた通り、外宮の世襲神主によって理論化され、外宮御祭神・豊受大神を内宮の天照大神よりも上位に位置づけようとするのが渡会神道ですが……その外宮が創建されたのが、他でもない、雄略天皇の御代だったのです。

歴史的事実としての外宮創建には種々さまざまな事情もあったのでしょうし、渡会神道においては倭姫命なども登場して非現実的な説話化が行われていますが……形式的には外宮創建は雄略天皇の「御治績」であるといっておいて間違いではないでしょう。
外宮の渡会氏にとっては、雄略天皇こそ直接の「恩人」ということになります。
ところがその雄略天皇が、さまざまな過ちを犯して、皇族を次々に殺害、ついには皇統断絶の危機まで招来してしまわれるのは……渡会氏にとっては少々困ったことではないでしょうか。
まして、その雄略天皇の後胤が絶えた後、雄略天皇に殺された市辺押磐皇子の皇子様方が皇位におつきあそばされる、という……あたかも雄略天皇を悪役にした勧善懲悪劇のごとき展開は、渡会氏として、頭の痛い史実ではないでしょうか。
何とかして、多少なりとも雄略天皇の株を上げ、顕宗・仁賢両天皇を貶める方法はないでしょうか?
少なくとも、雄略天皇だけを一方的に「悪役」にするのではなく、せめて「どっちもどっち」程度にバランスをとることはできないでしょうか?

幸い(?)にして、その方法はあったようです。
すなわち、武烈天皇です。

仁賢天皇の皇子・第二十六代武烈天皇は、こちらで書いた通り、紀において異常な扱いを受けておいでになる天皇です。
運命決定論へ傾斜しがちな親房の「天」の思想が、この天皇を見落とすはずがありません。

すでに日本書紀で読んだ通り、皇統断絶の危機は、顕宗・仁賢両天皇の御即位によっては、一時的に先伸ばしされただけで、究極的には解決しませんでした。
親房の「天」の思想からすれば、ある血統が断絶するのも「天意」である(はずである)ことになります。
武烈天皇が悪の帝として描写されていることは、親房にとって、自らの運命論を補強する上で、むしろ「幸い」だったのではないでしょうか。

親房の筆は、武烈天皇を
性さがなくまして、悪としてなさずといふことなし。仍天祚も久しからず。仁徳さしも聖徳ましまししに、此皇胤こゝにたえにき。
と描写し、仁徳系皇胤断絶の全責任を負わせています。
それによって、そこへ至るまでの途中経過は相殺され、無化され、当然、雄略天皇の皇族殺しによる皇統断絶の危機もまた、途中経過の一つに「すぎない」、一時的なものに「すぎない」出来事として、重みを軽減されることになります。
まして親房の筆は、武烈天皇を仁徳系皇胤断絶の全責任者に仕立て上げる一方、雄略天皇については、
天皇性猛ましましけれども、神に通じ給へりとぞ。
と、顕彰してあるのですから、なおさらです。

〝武烈天皇は仁徳系皇胤を断絶させたが、雄略天皇は断絶させかけただけに「すぎない」”というエクスキューズがまずあり、さらに加えて、
〝武烈天皇は「悪」だが、雄略天皇はちょっと「猛」々しくていらっしゃっただけに「すぎない」”というエクスキューズまで用意されているわけです。

ここまでくれば、あとは細部の調整程度の「文学的」な問題を残すのみでしょう。

親房はこう続けます。
「聖徳は必百代にまつらる」<春秋に見ゆ>とこそ見えたれど、不徳の子孫あらば、其宗を滅ぼすべき先蹤甚をほし。されば上古の聖賢は、子なれども慈愛におぼれず、器にあらざれば傳ことなし。
すなわち、武烈天皇が「不徳」であり「悪」であり、帝の「器」でないのならば、御父帝は、「子なれども慈愛におぼれず」、皇位を継承させるべきではなかった、と、主張しているのであり……つまるところここでも間接的に批判されているのは仁賢天皇です。
まったくもって恨みでもあるのかというところですが……
仁賢天皇にもこの「批判」にふさわしい、「不徳」の天皇でいていただいたほうが、親房にとって都合が良いこと、いうまでもないのではないでしょうか。

かくして、有名な二つの史実を意図的に混同し、歪曲し、仁賢天皇を顕宗天皇よりも、「劣った」天皇に仕立て上げる動機が(雄略天皇びいきの渡会神道には)ありうることが、推測できてしまいました。
また、そうすることによって、市辺押磐皇子の御子孫は、結果的に、【顕宗天皇>仁賢天皇>武烈天皇】と、代を追うごとに順番に「劣化」していったという、わかりやすい「衰退」の構図を導入することにもなります。
それは、物事は時間の経過と共にダメになっていくという末法思想・運命論・終末論にとっても、都合のいい展開だったのではないでしょうか。

まあ、あくまで推測にすぎないというか、疑わしきは罰せずと性善説に徹するのもよいですが。
渡会神道に傾倒していた親房が、上で述べた歴史歪曲の誘惑に抗しえなかったとしても、不思議ではないように思えますし……
そう考えてこそ、「渡会神道という未完成の神道思想は、やはり、どうにかして超克しなければならないのではないか?」という問題提起を導き出すこともできようというものではないでしょうか。
日本のこころを「探して」などと大それたことを意図する当ブログ的には、これは、意外と重要な「問題」であるように思えるのです。
神皇正統記 (岩波文庫)
現代語訳 神皇正統記 (新人物文庫)
posted by 蘇芳 at 02:10| 南北朝・室町時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする