2016年12月02日

【動画】神皇正統記2/2


頭がこんがらがってきましたが💦
あくまで備忘録、エスキスとして。


動画概要:
2009/05/02 にアップロード
神皇正統記は、南北朝時代に公卿の北畠親房が、幼帝後村上天皇のため

に、吉野朝廷(いわゆる南朝)の正統性を述べた歴史書。
史書としての正確さや論理性はいささか不備があるものの、足利尊氏に小田の小城に追い詰められた中で書かれ、読まれた書であり、現代に於いても日本の国体(くにがら)について考える時、不可欠の書だと思います。

「神皇正統記」は巷間よく言われるように、確かに、南朝の正当性を主張しています。
大日本嶋根はもとよりの皇都也。内侍所・神璽も芳野におはしませば、いづくか都にあらざるべき。
今の御門また天照太神よりこのかたの正統をうけましましぬれば、この御光にあらそひたてまつる者やはあるべき。
しかしながら、正統であることが、即、政治的勝利や、無謬性を保証するわけではなさそうです。

なんとなれば、こちらで見たように、親房は、承久の御計画を、
頼朝一臂をふるひて其亂をたひらげたり。王室はふるきにかへるまでなかりしかど、九重の塵もおさまり、萬民の肩もやすまりぬ。上下堵をやすくし、東より西より其徳に伏せしかば、實朝なくなりてもそむく者ありとは聞えず。是にまさる程の徳政なくしていかでたやすくくつがえさるべき。縦又うしなはれぬべくとも、民やすかるまじくは、上天よもくみし給わじ
後室その跡をはからひ、義時久く彼が權をとりて、人望にそむかざりしかば、下にはいまだきず有といふべからず。一往のいはればかりにて追討せられんは、上の御とがとや申すべき。謀反おこしたる朝敵の利を得たるには比量せられがたし。かゝれば時のいたらず、天のゆるさぬことはうたがひなし
と、批判。「天のゆるさぬ」上皇の「御とが」とさえ断定しているのですから。
鎌倉時代初期、南北朝分裂よりはるか以前の三上皇が、よもや、「正統」であらせられなかったなどという冗談はないでしょう。それでもなお、その政治的意思は、しばしば「天のゆるさぬ」ところとなり、三上皇配流という言語道断の悲劇を招来するのです。

渡会神道に傾倒し、歴史の展開に「天」の意思を見る親房には、この承久の悲劇を批判する術がありません。
人の世の企てが成るも成らぬも「天」「上天」の御意次第であるとするのなら、現に頓挫した計画は、頓挫したというそのこと自体によって、天意に背いたとの烙印を押されざるをえず……あらゆる結果を、それが「結果」であるということ自体によって、ひたすら追認するしかなくなってしまいます。

で、あるならば。

親房が、足利の増上慢を、非道を、いかに憤り、口を極めて罵ろうとも、建武中興が、現に破綻し、
されば或人の申されしは、「公家の御世にかへりぬるかとおもひしに中々猶武士の世になりぬる」とぞありし。
という様相を呈しているという「結果」をも、それが「結果」であるということによって、「天」の意思と見なさなければならない瀬戸際に立たされかねません。
人臣の道を説き、かくある「べき」だといくら叫んでも、現にそうなっていないという現実こそが「天意」である、と……これはまさしく親房自身の論理が自ら招いた袋小路ではないでしょうか。

しかもその「結果」を招いた「原因」を作ったのが朝廷自身だとすれば、なおさらです。
抑彼高氏御方にまいりし、其功は誠にしかるべし。すゞろに寵幸ありて、抽賞せられしかば、ひとへに頼朝卿天下をしづめしまゝの心ざしにのみなりにけるにや。いつしか越階して四位に叙し、佐兵衛督に任ず。拜賀のさきに、やがて従三位して、程なく参議従二位までのぼりぬ。
親房自身の承久の論評に倣うのなら、何よりもまず、かくも足利を甘やかし増長させ給うた帝の「御とが」をこそ指摘せざるをえないのではないでしょうか。

もちろん、いかに主上の御寵愛が過ぎたにせよ、かくまで皇恩をかたじけのうしながら、報恩の念を抱くどころかかえって際限もなく増長し、私利私欲を欲しいままにし、ついには朝廷に弓を引いた逆賊こそ憎むべきには違いありません。
しかし、それさえも「天」の意思である、と言われてしまえば、とっさに返す言葉もありません。

この論理の袋小路は、渡会神道が、豊受大神を天御中主神≒天祖神・最高神の地位に祀り上げようとした結果、一神教的な運命決定論に接近してしまった結果であるようにも思いますが……
もう一つ、見落としてならないのは、そこにある仏教の影響であるようにも思います。

動画の引用にも、
人の心のあしくなり行を末世とはいへるにや。
とありますが。この「末世」とは、単に慣用的に「世も末」と嘆いているのではありません。「世も末」という観念のルーツはいわゆる末法思想でありすなわち仏教です。親房の時代、「末世」とは、現代における慣用とは比較にならないレベルで、仏教用語そのものだったのではないでしょうか。

こちらこちらで見た、神仏習合の時系列的展開を、もう一度思い起こしてみましょう。

奈良時代、仏教によって神道が従属的地位に貶められた結果、南都の堕落と道鏡の跳梁を招きました。
その反省から、平安遷都が行われ、北嶺の新仏教が誕生、南都に対抗して、「自性清浄」と「現世利益」「本地垂迹」といった思想によって、神道との共存がはかられました。
そうして、表面上、神道と仏教は同格になりましたが、両部神道にせよ山王神道にせよ、事実上は仏教教団の主導する「仏教」にすぎないともいえます。
神道者による神道の理論化はまだはたされておらず、借り物の仏教的論理に頼らざるをえなかったのが、平安・鎌倉・室町の神道思想の状況です。
この状況を一挙に覆し、神道こそ仏教よりも重要であるとするには、室町時代も後半、吉田神道の登場を待たなければなりませんし、なおその後も幕末の国学・儒学による尊皇思想の高まりとともにその吉田神道さえも超克の対象となっていきます。

つまるところ、親房の時代、渡会神道は、まだまだ神仏習合のくびきから脱しきっていなかったのではないでしょうか。
そして、そのような制約のなかにあった渡会神道によっては、逆賊・足利の没義道をさえ、究極的には、人心荒廃の「末世」という動かしがたい「運命」に収斂させる以外になかった。ようにも思えるのです。

とすれば、「神皇正統記」が提示しているのは、完成された尊皇思想や皇国史観ではなく、むしろ、その完成に向けて超克されるべき思想的・信仰的「課題」であったというべきでしょうか。
吉田神道を経て、儒家神道を生み、明治の維新を結実した思想的格闘の、出発点・一里塚として読むべき、それは、そんな一冊なのかもしれません。
神皇正統記 (岩波文庫)
現代語訳 神皇正統記 (新人物文庫)
posted by 蘇芳 at 01:39| 南北朝・室町時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする