2016年12月01日

【動画】神皇正統記1/2


「神皇正統記」といえば、南朝の重臣・北畠親房が南朝正統史観を云々、と、当時はもちろん、幕末、維新、はては現代に至るまで、尊皇思想の名著とされていますし、それはそれでよいですが。
いかな名著といえど、読みもしないでありがたがっていては仕方がありません。
幕末の志士に影響を与えたといえば頼山陽なども有名ですが、彼の天皇観が、天皇に政治的「権力」を要請するものだったことにはこちらで触れました。
「神皇正統記」もまた、実際に読んでみれば、いわゆる尊皇家・愛国者・保守派の愛読書としては違和感を覚えるような記述にも、出くわさないとはかぎりません。
愛国者を自任するのなら、牽強付会の受け売りに終始することなく、その記述に率直に向き合うことは、かえって必要であるように思います。
また、そこまで大上段に構えなくとも、人づてやまた聞きではなく、本文そのものに向き合ってこそ、くりかえし新たな発見が得られるというのが、そもそも「名著」というものではないでしょうか。

最初に一応、近現代の「愛国者」一流の、本書の持ち上げ方を見ておきますと、

動画概要:
2009/05/02 にアップロード
神皇正統記は、南北朝時代に公卿の北畠親房が、幼帝後村上天皇のため

に、吉野朝廷(いわゆる南朝)の正統性を述べた歴史書。
史書としての正確さや論理性はいささか不備があるものの、足利尊氏に小田の小城に追い詰められた中で書かれ、読まれた書であり、現代に於いても日本の国体(くにがら)について考える時、不可欠の書だと思います。
というところでしょうか。

しかしながら、そもそも北畠親房が、南朝の重臣であると同時に神道家でもあることに、もっと注意が必要かと思います。

延喜元年十二月、後醍醐天皇が吉野にお遷りになったとき、親房は伊勢に下向して、渡会家行に迎えられます。親房が義良親王(後の後村上天皇)を奉じて東征の軍を起こし、伊勢の大湊から船出したのが、翌々延元三年。しかし、船団は難破し、親房は常陸に流れ着き、親王は伊勢にお戻りになり、そこから吉野へおかえりになりました。後醍醐天皇が崩御され、義良親王が吉野で践祚されたのが、その翌延元四年でした。
動画の後半で語られている、常陸の戦陣における「神皇正統記」執筆の背景はざっと以上のようなものだそうですが……

つまるところ、親房は、伊勢の渡会氏の元に1年半にもわたって身を寄せています。
渡会氏が伊勢神宮外宮の世襲神主の家柄であり、いわゆる伊勢神道(渡会神道)の理論化に功績があったことは、言うまでもないでしょう。
親房はこの伊勢滞在中に、家行のもとで、深くこの伊勢神道を学んだようです。

しかしてこの伊勢神道・渡会神道というのは、外宮主導で理論化されたため、外宮祭神・豊受大神を非常に重視するものでもあります。
豊受大神といえば、一般的には御饌都神であるとされ、その御神徳についても(たとえばこちらで試みたように)衣食住の重要性から理解していくことになるのが自然かと思いますが……
渡会神道においては、食の神(にすぎない)などとはトンデモナイ、実にこの豊受大神こそ天御中主神であらせられるぞよ、と、主張されています(こちらも参照)。
「神皇正統記」にもこの渡会神道の「教義」がそのまま受け継がれています。
まず、雄略天皇の御代の外宮御鎮座の記述は、
二十一年丁巳冬十月に、伊勢の皇太神大和姫の命にをしへて、丹波國與佐の魚井の原よりして豊受の大神を迎へ奉らる。
云々、と外形的な事実を述べてあるだけで、「食」にかかわる神勅そのものは割愛されています(そもそもこの時点でなお倭姫命が御存命でいらっしゃったというのも、「倭姫命世記」をはじめとする渡会神道特有のお話です)。
その上で、一般常識に配慮したのでしょう、一応、出だしでは「異説」としてはいますが、
抑此神の御事異説まします。外宮には天祖天御中主の神と申傳たり。されば皇太神の託宣にて、此宮の祭を先にせらる。神拜奉るも先づ此宮を先とす。
かやうの事によりて、御饌の神と申説あれど、御食と御氣との両義あり。陰陽元初の御氣なれば、天の狭霧・國の狭霧と申御名もあれば、猶さきの説を正とすべしとぞ。天孫さへ相殿にましませば、御饌の神といふ説は用がたき事にや。
と、最終的に結論しているのですから、完全にこちらでみた渡会氏の主張そのままです。

これが、単なる付け焼刃の受け売りにすぎないのなら、そのまま読み飛ばしておけばよいのですが……
上で、親房が伊勢神道を「深く」学んだようだと書いておいたのは、どうも、親房の神道観が、単なる受け売りの域を超えて、本書の思想・構成に深くかかわっているように思えるからです。

本書において、しばしば目につく単語に「天」というものがあります。
ある企てが挫折したのは天意にかなわなかったからであり、別の計画が成就したのは天意にかなったからである、という記述が、何度もくりかえされています。また、ある天皇の皇胤が絶え、別の天皇の皇胤へと(天武系→天智系など)皇統が移った場合などにも、親房は「天」のはからいを見ているようです。
神秘家の定型句のようなものといえば言えますが……
動画でも引用されていた通り、有名な「神皇正統記」の出だしは、
大日本者神國也。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を傳給ふ。
であり、渡会神道がこの「天祖」こそ豊受大神であると主張し、日神≒皇祖神よりも優先しようとする傾向が強いのだとすれば、親房もまた、「天」という言葉に、単なる漠然としたサムシンググレイトではなく、豊受大神という具体的な神名・神格を措定してした可能性は、あるのではないでしょうか。

しかしながら、そのように、「天」の意思を特定の一柱の神と結びつけ、その意思の発動の相において歴史を見るということは、一歩間違えば、「唯一絶対神」の創出へと接近してしまう危険をはらんでいるのではないでしょうか?
「神の意志でなければ木の葉一枚落ちることはない」という西洋の俗諺についてはこちらで考察しましたが……
「天意」の下で歴史を解釈しようとする姿勢は、しばしば、果てしない現状追認の惰性≒運命決定論へと陥ってしまいます。
この世のすべてが強大な神の意思のままだとすれば、どのような悲劇も不条理も惨劇も、神の意思として正当化されなければならない。この西洋一神教的な誤謬を、現代日本の私たちがくりかえすことほど滑稽なことはないでしょう。

そもそも、こうした「天」の意思のような思想は、日本的なものでしょうか?
「天の命が革る」などというのは、こちらで見たように、大陸の邪悪な思想でしょう。
外国の儒教や仏教に負けないように神道を理論化しようと試みた渡会神道は、実は「カラゴコロ」に接近しやすい危険があり、それが先に述べた「唯一神」への接近をももたらし、さらには史実の歪曲の原因にさえなりえたのではないでしょか。

上の動画の概要にも「史書としての正確さや論理性はいささか不備があるものの」と動画作者が書いていますが……その「不備」の根本には、親房の特殊な「天」の思想があり、「神皇正統記」とは、その点にかなり注意して読まなければならない書物であるように思えるのです。

実際、「神皇正統記」の「天」の記述には、(いわゆる「南朝正統」の「皇国史観」からすると)、しばしば驚かされます。
たとえば後鳥羽上皇による承久の御計画については、
頼朝一臂をふるひて其亂をたひらげたり。王室はふるきにかへるまでなかりしかど、九重の塵もおさまり、萬民の肩もやすまりぬ。上下堵をやすくし、東より西より其徳に伏せしかば、實朝なくなりてもそむく者ありとは聞えず。是にまさる程の徳政なくしていかでたやすくくつがえさるべき。縦又うしなはれぬべくとも、民やすかるまじくは、上天よもくみし給わじ
と、批判的ですし、源氏に対してだけではない、北条に関してさえ、
後室その跡をはからひ、義時久く彼が權をとりて、人望にそむかざりしかば、下にはいまだきず有といふべからず。一往のいはればかりにて追討せられんは、上の御とがとや申すべき。謀反おこしたる朝敵の利を得たるには比量せられがたし。かゝれば時のいたらず、天のゆるさぬことはうたがひなし
上皇の「先制攻撃」を「御とが」と断定しています。

さらに言うと、南朝方の北畠親房、「神皇正統記」をありがたがる近現代の尊皇家が逆賊と罵る足利高氏については、
抑彼高氏御方にまいりし、其功は誠にしかるべし
と、認めてしまっています。
もちろん、高氏が後に朝敵になることは事実ですが、そうなる原因を作ったのは、論功行賞のバランスを欠き高氏を増長させ、他の臣下たちにも高望みの手本を示してしまったことなど、朝廷側の失策を指摘する傾向も強いようです。
後村上天皇の御即位にあたって、過去の失敗に学んで、戒めとしていただきたい意思もあったのかもしれませんが……

「南朝正統」の「皇国史観」などというキャッチフレーズだけで理解できるほど、単純な書物ではないことは確からしく思えますし、その複雑さは、単なる親房の公平さだの客観性だのという唯物史観的な美徳からもたらされただけのものとも考えにくいように感じます。

「神皇正統記」は、左翼者流に単なるトンデモ本として捨て去るのはではなく、右翼者流に都合の良いところだけをつまみ食いするのでもなく、その思想の根本を(その危険性も含めて)検討しなおしてみる価値があるという意味でこそ「名著」なのかもしれません。
神皇正統記 (岩波文庫)
現代語訳 神皇正統記 (新人物文庫)
posted by 蘇芳 at 16:17| 南北朝・室町時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする