2016年11月30日

【動画】明治天皇 Emperor Meiji


画像集ですね。


動画概要:
2014/07/29 に公開
明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日) - 明治45年(1912年)7月30日)は、日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと­)。御称号は、祐宮(さちのみや)。孝明天皇の第二皇子。生母は権大納言・中山忠能の­娘・中山慶子。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)13時頃、京都石薬師の中­山邸にて生誕。9月29日、父・孝明天皇から祐宮(さちのみや)という幼名を賜る。安­政3年(1856年9月29日)に宮中に移るまで中山邸で育つ。万延元年(1860年­)閏3月16日、予定より2年遅れて深曽木の儀を行う。7月10日、儲君と定められ、­准后・九条夙子の実子とされる。9月28日、親王宣下を受け睦仁という諱名を賜る。

黄櫨染御袍をお召しになった写真は、当時、各国の元首同士が写真を交換する慣例があったとかで、そのために撮影されたもの、とも、言われているようです。
しかし明治天皇の和装のお写真というのは、他にはあまり知られず、大方は軍服をお召しになった「大元帥陛下」としての画像のほうが有名でしょう。
黄櫨染御袍のお写真もすぐに軍服姿のものに差し替えられたとか?どこかで読むか聞くかした記憶があります。
野蛮な西洋諸国に伍していかなければならなかった明治政府、内外に向けての陛下の「イメージ戦略」にも、苦心したのかもしれません。

「近代化」がイコール「西洋化」でしかなかった時代、日本も板につかない「背伸び」に苦心し、時には鹿鳴館や英語公用語論などの勘違いに陥ることもしばしばだったとか。
本来は何事につけ日本式をお好みであらせられた明治天皇、時に苦々しく思し召しだったこともおありだったかもしれません。
「伊藤は朕に洋服を着せて、自分は和服を着るのか」と仰せになったエピソードなどはさだめし有名でしょう。
付け加えるなら、文明の利器たるお写真もあまりお好きではあらせられなかったらしく、その「代用」として製作されたキヨッソーネ筆の有名な御真影をはじめとして、上の動画に見るように、明治天皇の画像は、その多くが「絵画」でした。
「御一新」のシンボル・明治天皇、ご本人の御気質としては、実は、意外と保守的かつ昔気質であらせられたようです。
わが国は 神のすえなり 神祭る 昔の手ぶり 忘るなよゆめ
いそのかみ古きためしをたづねつつ 新しき世のことも定めむ(明治天皇御製)
教育勅語も、西洋式の知識の吸収のみに偏り、日本古来の道徳がおろそかにされている教育現場に危機感をお持ちになったため、渙発されたという側面があったといいます。

しかし、いわゆる「和魂洋才」を推進していくために、この保守的かつ昔気質な明治天皇の御存在は、軽佻浮薄に流れがちな臣下・臣民に対する「重石」として、かえって良好に作用した側面があったのかもしれません。
時はかるうつはの針のともすれば くるひやすきは人の世の中
重臣も、政治の上では国民を騙すくらいのことは平気でしょうが、陛下を欺くわけにはいきますまい。政策につき、軍略につき、真剣かつ誠実に奏上・奉答申し上げなければならなかったはず。そうして、陛下を「説得」申し上げなければならないことを思えば、いかな不心得者でも、私利私欲や売国にいそしんでいる暇など、なかったのではないでしょうか。
明治政府が、あの危険な時代を、驚くほどうまく乗り切った、その奇跡的な功績の根底には、明治天皇という「重石」ゆえにもたらされた、絶妙のバランス感覚があったようにも思えます。
明治の御代―御製とお言葉から見えてくるもの
絵画と聖跡でたどる 明治天皇のご生涯
明治天皇とその時代―『明治天皇紀附図』を読む 明治天皇百年祭記念
明治天皇紀〈第1〉
posted by 蘇芳 at 16:01| 明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする