2016年11月27日

外戚と幼帝と上皇と




外戚となることで政治の実権を握ろうとしたのは、何も藤原氏に限った話ではありません。
欽明天皇の後継として次々に践祚された四代の天皇(敏達・用明・崇峻・推古)のうち、実に三方の御生母が、逆賊・蘇我氏の出であったことは、日本書紀を読んだときにくりかえし確認したことです。
後の世にも、安徳天皇の外祖父・平清盛や、娘・和子を後水尾天皇に入内させた徳川秀忠など、藤原氏の手法を模倣しようとした例はいくつもあるでしょう。

しかし、外戚というのは、権力獲得の手段としては迂遠で、不確かなものです。
何よりもまず、娘を作らなければなりませんし、
その娘を入内させなければなりませんし、
その娘に皇男子を生んでもらわなければなりませんし、
その皇子に御即位を願わなければなりません。
また、何よりも、外祖父として権力を握ることができるのは、孫の時代なのですから、本人が長生きをしなければ話になりません。

ずいぶんと気の長い話ですが……
本当の問題はさらにその先であるとも言えそうです。

藤原氏の誰もが、即位にふさわしい年齢になるまでの「孫」の成長を、気長に待てたわけでもなかったでしょう。短気な藤氏長者も何人もいたはずですし、そもそも、即位にふさわしい年齢にまでご成長になった結果、帝ご自身が、確固とした主体性や政治的意思を確立しておしまいになっては、外祖父にとってはかえって都合が悪いとも言えるでしょう。
藤原氏が外祖父になることを焦った場合、当然、幼帝の擁立ということが企図されることになりがちではないでしょうか。
実際、こちらで見た清和天皇この方、平安時代は数々の幼帝が御位にお即きあそばされた時代でした。
確かにこれなら、政権は、一見、藤原の思うままにできそうではあります。

しかしながら、幼帝の擁立には、もう一つ、別の側面があります。
先帝の「譲位」、すなわち「上皇」の誕生であり、権威の二重化(時には三重・四重化)です。

帝が幼くてあらせられるということは、かなりの確率で、帝の御父君もまだまだお若くていらっしゃるということです。
平均寿命の短い時代ですから、お若くして御隠れになった天皇もいらっしゃることは確かですが、幼帝の擁立は、かなりの頻度で、まだまだお元気な天皇に譲位を迫るということになりやすいでしょう。
(実際、第65代花山天皇のように、藤原氏に騙されて出家・譲位を強いられておしまいになった天皇までいらっしゃったほどです)
天皇ご自身がそれで納得しておいでならよいですが、天皇ご自身が政治に意欲をお持ちであった場合、意に反する譲位を「強いられた」とお感じになることもありうるでしょう。当然、藤原との間には隔意が生まれることにもなりがちでしょうし、ひいては藤原氏の政敵が上皇のもとに集うことにもなりかねません。

そしてまた、幼帝も、いつまでも幼いままでいらっしゃるわけではありません。
いずれご成長あそばされ、御自らの尊いお血筋を御自覚あそばされることもあるでしょう。
藤原氏の専横について、先帝の「譲位」について、諸々、思うところをお持ちあそばされることもあるのではないでしょうか。

平安時代は摂関政治の時代ですが、同時に、上皇による「院政」の時代でもあり、また、後に理想化される醍醐天皇をはじめ、何代かの天皇による御親政復活の試みられた時代でもありました。
「親政」「院政」「摂関政治」……藤原氏の権勢が盤石なうちは、顕在化しなかったかもしれませんが、平安時代の統治形態には常に三つの可能性が潜在しており、やがて藤原氏の勢力が衰えていくことになれば、その時々の情勢次第で、何が起こるかわからなくなっていきそうです。

実際、こちらで見た通り、道長の死後、前九年の役・後三年の役が起こり、公家の堕落と武家の台頭があからさまになっていきますが。さらにその後は、ついに武家政権の登場を結果するに至った保元・平治の乱が控えています。
そしてその乱の原因といえば、摂関家の内紛(兄弟喧嘩)であると同時に、(まことに畏れ多いことではありますが)上皇・天皇という、二重化されてしまった皇室権威相互の衝突でもあったのではなかったでしょうか。

藤原氏をはじめとする臣下の「外戚化」は、権力獲得・強化の手段として説明されることがしばしばですが、その一方で、皇室の権威を複雑化・不安定化しやすかった側面があり、それは長い目で見れば、摂関家自身の首を絞めることにもなっっていったのではないでしょうか。
ラベル:平安時代
posted by 蘇芳 at 02:31| 平安時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする