2016年11月16日

【動画】橘中佐(上下 & 唱歌)


日露戦争の佐官級の軍神といえば、海軍の広瀬中佐とならんで、陸軍ではこの方でしょうか。





wiki:橘周太

橘周太少佐(没後中佐)は第二軍第三師団歩兵第三十四連隊第一大隊長として、遼陽会戦、首山堡攻略戦に参加、一時は首山堡東南方高地を占領するも、敵の物量に押されて部隊は壊滅、橘自身も身に七弾を受けて壮烈な戦死を遂げたと伝えられています。
つまるところ、この時点での首山堡占領自体は成功しませんでした。
しかし、第二・第四軍が奮戦して敵を引きつけている間に、第一軍がひそかに太子河を渡河、敵の側面をつき、遼陽会戦自体は、日本軍の勝利に終わりました。
戦闘の論功行賞というのは難しいですし、後知恵でもっともらしいさかしらを述べ立てるのも気が引けますが……橘たちの奮戦は立派に陽動の役を果たしたことにはなるのではないでしょうか。

少々講談めきますが、この橘戦死の奏上をお受けになった明治天皇は、それをすぐさま「東宮(後の大正天皇)に知らせよ」とお命じになった、とも、言われているようです。
皇太子殿下も、後に戦地慰問のため東宮武官を満州軍に派遣されたとき、特に橘の戦死について詳しく聞いてくるよう命ぜられた、とか……また、後に皇位を継承あそばされてからも、折にふれて「橘中佐」の吹奏を軍楽隊に命ぜられた、とか……伝えられているようです。

それというのも、日露の戦役を去ること十余年前、明治24年には、橘は東宮武官に就任し、皇太子殿下の御教育にあたった経歴があったのでした。

ご学友の面々と共に、皇太子殿下も、橘を兄のようにお慕いになったと伝えられています。
偉人の逸話というのは話に尾ひれがついていることもありえますが、この場合は、そもそも東宮武官に選ばれるということ自体、橘の人格・識見が評価されていたことの証でしょうから、信憑性は高いのではないでしょうか。
その後の橘の経歴を見ると、明治30年には陸軍戸山学校教官兼教育大隊中隊長、明治35年には名古屋陸軍地方幼年学校長、と、教官・教育者としての道を歩んでいるようですから、橘の「人を育てる才」は傍目にも明らかなものだったのかもしれません。

そして、
周太が嘗(かつ)て奉仕せし
儲(もうけ)の君の畏(かしこ)くも
生れ給いしよき此の日
と、上の動画でも歌われているように、橘戦死の八月三十一日は、他でもない、その皇太子殿下のお誕生日にあたりましたから……
この事実もまた深く当時の国民の胸を打ったのでした。

敵弾や砲弾の破片を身に七弾も受けながら、十数時間にわたって指揮をとりつづけ、奮戦した忠勇無比の橘の武勇が、その人徳とも相まって称賛され、ついには軍神として祀られるに至ったのも、けだし当然というべきだったでしょうか。
wiki:橘神社
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遼陽城頭夜は闌けて―軍神橘中佐の生涯
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経験余録
posted by 蘇芳 at 02:57| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする