2016年11月10日

頼朝の尊皇


孫引きで恐縮ですが、
綸命に違背するの上は、日域に住すべからず。関東を惣緒せしむるに依りて、鎌倉に参るべからず。早く逐電すべし。
と言ったのは、源頼朝だとか。
彼の敬神についてはこちらで見ましたが、わが国において敬神家はほぼ自動的に尊皇家たらざるをえず、頼朝においても例外ではありません。
上に言う「綸命」とはすなわち「勅命」、「日域」は「日本」「日本領土」。
御皇室に背き奉るものは日本から出ていけ、とは、天晴よくぞ申した、これぞまさしく大将軍、というべきでしょう。

しかしながら世にいわゆる「判官びいき」と言いまして。
軍事の天才・源義経の華麗と純情に対して、兄・頼朝の陰険はいかにも人気がありません。
こんな陰険な底意地の悪い冷血漢が、どうして尊皇敬神の士でもあったのか、少々不思議に思えるほどです。

義経はもちろん、範頼もやがては頼朝によって伊豆に流され殺されるのですし、木曾義仲ももとより源氏の親戚筋、その子・義高は人質として頼朝の婿となっていたにもかかわらずあのありさま。
頼朝とは言ってしまえば「身内」を殺しまくった男ですが、その結果、その遺児たちは頼朝の死後には頼れる「身内」もろくになく、北条の手であっさり全滅、幕府そのものが平家の北条に乗っ取られるのですから、間抜けもいいところだとも言えなくはありません。

身内に対する頼朝のこの陰惨な猜疑心・嫉妬心はどこから来るのか?
もちろん生来の資質ということも幾分かはあるのでしょう。
それに加えて、そもそも保元平治の乱よりこの方、源氏は元々身内で殺し合ってきた一族とも言えますし、マキャベリスティックに見れば「身内」が最も信用できないというのももっともかもしれません。その平治の乱で父を失い平家にとらわれ流人となった頼朝であれば、今風に言うところのトラウマを負っていても不思議ではないかもしれません。
また、平家全盛の時代を流人として生き延びてきた頼朝、処世術としての用心深さ・疑い深さを身につける必要もあったかもしれません。

そうした頼朝の暗い人間性については、なるほど、嫌われやすいものでもありましょうし、嫌われるのも仕方ないものではあるでしょうが。
そういう猜疑心の塊のような男が、単に世を呪い人を呪うだけの無能に終わらず、陰険ゆえの大政治家になったという事実は、認めなければならないでしょう。
大江広元の補佐があったの何のといっても、全国に守護・地頭を置いただけでも大したものです。
(※律令制度の建前は公地公民制ですが、事実上の土地私有は長らく続き、広大な荘園の発生、国有地の減少は、朝廷の税収にとって大きな問題。御歴代の天皇も、何度となく荘園整理の詔を渙発されたもうたことはおありでしたが、さて最大の荘園所有者はといえば、まず何よりも摂政関白藤原何某がそれなのですから、そうそう埒があくものでもなかったでしょう。これに対し、国領・荘園の別を問わない形で、諸国を統括する制度を確立したのが頼朝であり幕府だった、と、言えるのかもしれません)

ここから先はただの推測であり空想であり妄想でさえありますが……
あるいは、頼朝のこの根の暗い性格上の欠点と、彼の尊皇思想は、同じコインの裏表でもあったのではないでしょうか。

そもそも、暗い情念というものは、他人以上にまず自分自身を害いやすいものです。
にもかかわらず、頼朝が、長い流人生活の中で、自身の陰険さにつぶされずにすんだ、その心の支えとなったものは何だったか?
北条の後ろ盾? 政子の献身? それもあったかもしれませんが……
それ以前に何よりもまず頼朝自身の内的な矜持が失われずにいなければ、それら外的な助力には何の甲斐もなかったのではないでしょうか。
外的な助力が「助力」として機能するためには、何よりもまず、頼朝自身が、他人の差し伸べる手を受け入れるだけの精神の弾力性を失わずにいる必要があったでしょう。
頼朝をしてその内的な精神の弾力性を保持させえたもの、支えたものは、何だったか?といえば……やはり、自らの出自に対する「貴種」としての自覚・自負だったのではないでしょうか?

もちろん頼朝に限らず、源氏である以上は「ヤアヤアわれこそは清和源氏の」と名乗りはするのでしょうが。その貴種としての血の自覚の深さ激しさにおいて、やはり個人差というものはあるでしょう。
流人・頼朝のそれが、たとえば木曾義仲の天真爛漫とは一線を画す深刻性を帯びていても不思議はないように思いますし、また、若くして平治の乱の死線をくぐりぬけた「嫡男」頼朝のそれが、まだ幼かった弟たちが長じて「学習」した観念をはるかに凌ぐ、生々しさを帯びていたとしても、不自然ではないのではないでしょうか。

その証拠と言っていいかどうか、建久四年、範頼が頼朝に忠誠を誓う起請文を提出したとき、その署名「参河守源範頼」の「源」の一字に、頼朝は、無茶苦茶な難癖をつけたことがあるといいます。
源の字を載す。もしくは一族の儀を存するか。頗る過分なり。
分家したわけでも養子に出たわけでもない弟が、兄と同じ苗字を名乗るのが「過分」と言われても、では何と名乗ればよいのやら、いくらなんでも基地外じみた言いがかりでしょう。
さすがに範頼の使者・重能もあきれたでしょうが、範頼と頼朝が同父の兄弟であること、頼朝自身がかつて朝廷への報告に「舎弟範頼」と書いていたこと、それを受けて朝廷でも公文書にその旨を記載されたことなどを一々あげて、範頼が「一族の儀」に相違ないことを論証、頼朝もさすがに返す言葉がなかったといいます。

それで頼朝が心を入れ替えたかといえば決してそんなことはなかったわけですが……

いずれにせよこの挿話には、「平家にあらずんば人にあらず」ならぬ、「頼朝にあらずんば源氏にあらず」という、頼朝の異常とも言える自負心・独占欲が覗いてはいないでしょうか。
しかして、頼朝が「独占」しようとしたものが、単に世俗の権力だけであったなら、現に忠誠を誓っている相手に対して、何も「源」の一字にこだわる必要もなかったのではないでしょうか。
後の徳川の豊臣に対する鐘銘事件のような確信犯の言いがかりだったと考えられなくもありませんが、しかしそれにしてはたやすく重能に論破されているのはいかにも無様。確信犯にしては下手なやり口というべきでしょう。
とすれば、彼がそこにこだわらなければならなかったのは、彼が「独占」しようとしたものが、政治的な実益の類ではなく、もっと抽象的な観念的な何か、すなわち貴種としての源氏の聖性だったから、ではなかったでしょうか?

もちろん真相などわかりませんしこれが正解だと言いはるつもりもありませんが……

源氏のルーツは皇室であり、源氏の自負を持ち、天下に号令しようとする者は、自らの正当性の根拠を害うことなく皇室に背くことはできない、という……わが国においてこのあとも長く武家政権を拘束していくことになる権威の観念は、後世のインテリがさかしらにもてあそぶような単なる「抽象」ではなく、血が滴るような生々しくも切実な「現実」だったのではないでしょうか?
少なくとも、源頼朝においてはそうだったように思えますし、他の誰でもない、源頼朝においてそうだったという事実は、日本史において決定的に重要ではないでしょうか。
何となれば、彼こそは、単に「鎌倉幕府」の創始者というにとどまらない、「幕府」というシステムそのものの元祖でもあるのですから。

足利にせよ徳川にせよ、頼朝によって構築されたこのシステムを「総体」として模倣しようとするのなら、そのシステムを根底において支える「尊皇」「敬神」をも、無視することなく踏襲せざるをえないのではないでしょうか。
その「踏襲」をおろそかにした足利幕府は不安定な政権に終始し、幕府システムを採用しなかった戦国の覇者も表向きはやはり尊皇家たらざるをえず、しかもその覇権は信長にせよ秀吉にせよ一代で潰え、もっとも上手くこのシステムを使いこなした徳川も幕末にはその「踏襲」を徹底するのあまり自縄自縛に陥ってついには崩壊するに至ったのは、ある意味、頼朝の「呪い」とでもいうべきでしょうか。
しかも、なお、それら度重なる政変の中で、ただ皇室だけが不変の権威・永遠の聖性として屹立しつづけたのだとすれば……
それこそは日本史に対する頼朝の最大の功績ともいうべきかもしれません。
この時、日本国の運命は、頼朝一人の双肩にかかっていました。彼の思想、信念、その一挙一動は、天下の人々、仰いで之に注目していました。従って若しも彼にして国柄をわきまえず、朝廷に対して傲慢であり、伊勢大神宮に対して不遜であったならば、武士共は皆之にならい、失礼を働いたかも知れない情勢でありました。しかるに頼朝は、跪いてうやうやしく勅命を承り、いかに困難な事でありましても、勅命とあれば必ず奉仕させていただきますとお誓い申し上げ、そして勅命に従わない武士に対しては、「日本国から出て行け」と、厳然として言い放ったのであります、この一言は、国家の本質を安定して、微動もさせない力をもっていました。そしてその拘束力は、源氏三代の間だけでなく、鎌倉幕府全体に及び、それどころでなく、足利も、徳川も、皆頼朝を模範として起ったもので、頼朝の前には頭があがらなかったのですから、室町幕府も、江戸幕府も、大局から見れば頼朝の指導拘束を受けたと云ってよく、従って幕府と云うもの、変体は変体ながら、日本国の本質を変えるに至らなかったのは、頼朝のあのすばらしい一言によると云ってよいでしょう。
ラベル:鎌倉時代
posted by 蘇芳 at 20:59| 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする