2016年11月05日

承平天慶の乱


延喜・天暦の治といえば、第60代醍醐天皇と第62代村上天皇の御代のことで、後世、非常に理想化されたことは誰でも知っていますが。
「第60代」と「第62代」ということは、当然、その間にもう御一方、天皇が在位あそばされました。
第61代朱雀天皇です(wiki)。
延喜・天暦の帝のはざまに埋没して、一見すると目立たない天皇であらせられるかもしれません。
しかし、朱雀天皇の御代にも、注目すべき事件は起きています。
承平・天慶の乱(将門・純友の乱)です。

まあ、あえてというなら、とある半島で統一新羅が滅亡したのも同じ朱雀天皇の御代ですが、あんな国の自業自得などは今さらどうでもいいでしょう。

桓武天皇が仏都平城京から「脱出」し、千年の都・平安京を開かれてより以後、平安時代前期は、政治史的には藤原氏を中心とした政権中枢の権力闘争の時代として描写されることが多い、というよりほぼ通例のようです。
政争の歴史、といえばもっともらしいですが、言ってしまえば「政局」の歴史であり、コップの中の嵐にすぎないとも言えそうです。
その一方で、名門氏族が都で風雅や政局にうつつを抜かしているあいだに、地方では土着の新興勢力が勃興しつつあった、というのも、この時代の描写としての決まり文句でもあるでしょう。

平安時代といえば御堂関白記をはじめとして藤原氏その他貴族の残した日記がやたらと充実しているため、京都の出来事については史料的にも描写しやすい環境が整ってもいるのでしょうが、一方の地方の新興勢力云々というのは、今一つ抽象的でイメージがつかみにくいようにも思います。
何といっても、「都」というのは日本に一カ所しかありませんが、「地方」というのは言ってしまえば「都以外のすべて」ですから、物理的にも範囲が広すぎます。

こちらで見たように、延喜の税制改革に先立って地方の実情調査が行われたとしても、それを「推測」し「立証」するためには単にお公家さんの日記を読むという以上の、複雑な資料操作が必要なようでした。

そんな「地方」の状況が、向こうから噴出し、手掛かりを提供してくれているのが、承平・天慶の乱(wiki)であるとも言えそうです。

たとえば、ソースが「物語日本史(中) (講談社学術文庫)」で少々古いため、信憑性には注意も必要ですが、
この乱を見て、不思議に思われることがありませんか。それは、下総でも、常陸でも、備前でも、讃岐でも、出てくるのはたいてい介か大掾で、長官である守は、いっこう顔を出さないでしょう。守が任命せられないはずはないのですから、それが顔を出さないのは、任地へ下向していないからでしょう。つまり長官は、京都優雅の生活に耽って、地方の民政は、これを次官である介に任せておいたのでしょう。承平・天慶といえば、延喜の御代と、天暦の御代との中間ですが、それがすでにこの有様です。「此の世をば我が世とぞ思ふ」藤原氏全盛の間に、大きな禍の忍び寄りつつあるを、見逃してはなりません。
というのは、わかりやすい着目でしょう。
ちなみに律令制下の官位官職は、武家政権や戦国乱世の間にも通用し続けていましたが……最大の実力者の一人が、やはり、自称・織田上総「介」信長だったことは、面白い符合かもしれません。
万世一系の御皇室が健在なのですから、朝廷から賜る官位官職も健在ですが、それが正しく実態を反映していた時代がどれほどの期間実在したのかは、すこぶる疑問であるのかもしれません。

また、「延喜の御代と、天暦の御代との中間」ということは、こちらで見た、人頭税から地税への転換が行われた後ということでもあり……税収の確保が中央の風流生活を保障したと同時に、地方経済のあり方にも影響を及ぼしたであろうことは推測に難くありません。
税収は土地から得られるのだとすれば、その土地で耕作その他の労働に従事する人間は、誰でも良いことになります。新しい経済的条件が、地方に独自の経済単位・政治単位の組織化を可能にしたとしても、税さえ収めておけば、中央は気にしない、気にしなくてもやっていける、ということが、制度的に可能になっていたのが、この時代だったのかもしれません。

そうした条件下で勃興してきたのが、いわゆる平氏や源氏である、と、とりあえずは理解しておけば、わかりやすいのでしょうか?

ひきつづき「物語日本史(中) (講談社学術文庫)」で恐縮ですが、承平・天慶の乱を平定した武将たちに注目してみれば、
将門討伐では、武蔵介源経基・常陸大掾平貞盛のほかに、下野押領使藤原秀郷、純友討伐では、左近少将小野好古・源経基の正副長官のほかに、判官右衛門尉藤原慶幸と、主典右衛門志大蔵春実とがあります。
平貞盛、この人の子孫が平家の主流として、太政大臣清盛、内大臣重盛、あの全盛を極めるのです。そしてその平家が亡びた後に、鎌倉幕府の重鎮として、実質的に天下を掌握した北条氏、義時・泰時・時頼・時宗を出したあの北条氏も、この貞盛の子孫です。
 次には経基、(中略)その子満仲、摂津の多田に住し、満仲の子、兄は頼光、弟は頼信、その頼信の子が頼義、頼義の子が八幡太郎義家、(中略)やがてこの家から頼朝や義経が出てくるのです。
 次に藤原秀郷、この人の子孫は、奥州に土着しては、清衡・基衡・秀衡など、平泉の富強と豪奢と、世を驚かせたでしょう。九州へ下っては、大友となり、少弐となって、(中略)京都に留まったものからは、佐兵衛尉義清、出家して西行、(中略)そのほか伊賀・小山・下河辺・結城などの豪族、いずれも秀郷から出て来るのです。
ということになるようで、なかなか視野が広がる描写ではないでしょうか。

私が子供のころにも将門の首塚がどうのこうのという映画がなぜかむやみにゴリ押しされ話題になったことがありますが……怨霊信仰の主人公として将門の知名度は高いですし、反天皇の陰険な悪意に支配された左翼反日史観的にも逆賊・将門は過剰にもてはやされやすいのかもしれませんが……
乱の主人公よりも、乱鎮圧の主人公たちに注目してみれば、たったそれだけで、平家・源氏・奥州藤原氏・北条氏などなど、その後の歴史の主役級の人物たちのルーツをそこに見出し、時代の「流れ」を見通すこともできやすくなるようです。

もちろん、知っている人は知っている話でしょうし、むしろ常識以前の基礎知識なのかもしれませんが……
承平・天慶の乱と、その後の源平時代とのつながりを、こうもわかりやすく説いてくれた本に出合ったのは、平泉澄が初めてだったというのも個人的には本当です。

逆賊大好きサヨク好みの敗者の日本史とやらも、まあ、結構ですが……

それだけに偏って、かえって勝者と後の歴史の主役たちとのつながりを教えてくれる自称歴史のセンセーのほうが珍しい、というのでは、不自然かつ不健康ではないでしょうか。
物語日本史(中) (講談社学術文庫)
歴代天皇で読む 日本の正史
ラベル:平安時代
posted by 蘇芳 at 03:36| 平安時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする