2016年09月23日

【動画】[美しき日本] 京都 宮津市


こちらで述べたように豊鋤入姫命の御巡幸地は、大和以外はすべて海辺です。
そのうち、丹波の吉佐宮については、外宮御祭神・豊受大神の「故郷」としても注目されます。



動画概要:
2013/04/08 に公開
神々のふるさとは、天へ通じる道を信じ、祈りを捧げてきました。

天上の神々と地上の人間を結ぶ梯子だったといわれる「天の橋立」

宮津湾と阿蘇海を二分する砂州「天の橋立」は、「日本三景」の一つに数えられ、古くから文人や画家、為政者などが訪れる名所として知られてきました。
この砂州は、約4000年前、海流により流されてきた砂礫(されき)が海中に堆積してできたものとされていますが、いにしえの人々は海にのびる一本の道を、神が架けた橋だと考えました。伝説では、天上の男神(イザナギノミコト)が地上の真名井原にいる女神(イザナミノミコト)のもとに通うために架けた天上と地上を結ぶ橋が倒れてできたものとされています。もともとは、元伊勢籠神社(もといせこのじんじゃ)の境内であり参道でした。この地は神々とゆかりが深く、神代の昔、豊受大御神(現在の伊勢神宮外宮祭神)も奥宮真名井神社に鎮座しました。
例祭「葵祭」では、今でも冠に豊受大御神ゆかりの藤の花を挿します。神々のふるさとは、神々が遷った後も変わらず、祈りを捧げてきたのです。

Present by KTR・北近畿タンゴ鉄道(制作2012年7月)

豊鋤入姫命の御巡幸は「倭姫命世記」に記述があるそうですが、この「倭姫命世記」自体は、鎌倉期の著作とされています。
豊鋤入姫命の御巡幸地(元伊勢)も、当時の伊勢信仰から見て「ふさわしい場所」が後付けで選ばれた可能性も否定できないようには思います。

もっとも、だから意味がない、ということではないでしょう。
もしもそれが「後付け」だったとしても、後付けには後付けなりの根拠があったはずです。
それが偶然に左右されない人為的・作為的な操作であれば、かえって、その操作こそが、その操作を行った人物の思想(この場合は伊勢神道)について、逆説的に、多くを明らかにしてくれるのではないでしょうか。
その一つが、こちらで注目した「海」ということにもなるのかもしれません。

元伊勢は「濱(浜)」にあり、それは海辺であると同時に海へそそぐ「河」のそばでもあります。
そして「河」の源をたどれば「山」に行き着くでしょう。
「海」の豊かさを作るのが「山」の豊かさでもあることは、生態学だのエコロジーだのをもちださなくとも、ほとんど常識といってよいでしょう。
豊鋤入姫命の御巡幸が史実であっても、後世の付会であっても、元伊勢として選ばれた場所には、神道のコスモロジーが反映されていることは確からしく思えます。

また、「倭姫命世記」の著者は、外宮の神主を世襲していた渡会氏の一族であり、著述の目的には外宮の権威を高めることもあったと言われています。
となれば、豊受大神の「故郷」・丹波吉佐宮については、二重の意味で注目すべきだということにもなるでしょう。

内宮と対になる、天照大神とある意味「同格」といってもいい、外宮の御祭神・豊受大神とはどのような神様か? 豊受大神がそれほど大きな扱いを受けるのは何故か? それが雄略天皇の御代のことだったのは何故か?
考えてみるのも一興かもしれません。
posted by 蘇芳 at 14:06| 神道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする