2016年09月21日

海辺の元伊勢


こちらでも触れた通り、倭姫命の前任者・豊鋤入姫命も、天照大神の御鎮座地を求めて旅をされています。
もっとも、出典は鎌倉期に成立した「倭姫命世記」で、記紀や皇大神宮儀式帳など他の文献には記載がなかったりもするようなので、後世の付会である可能性はあるかもしれません。
しかし、後世の付会であるならあるで、その場所が選ばれた「理由」は、かえって、明確に観念され、わかりやすくなるかもしれません。
豊鋤入姫命の巡幸地は、大和を中心に、丹波(京都)・吉備(岡山)・紀伊(和歌山)の三ケ所ですが、大和以外の三ケ所の元伊勢伝承地に共通しているのは、「海」というロケーションではないでしょうか。

豊鋤入姫命の巡幸ルートは、
大和:笠縫邑
 ↓
丹波:吉佐宮
 ↓
大和:伊豆加志本宮
 ↓
紀伊:奈久佐濱宮
 ↓
吉備:名方濱宮
 ↓
大和:御室嶺上宮
このうち、大和の「笠縫邑」と「御室嶺上宮」の比定地が奈良県桜井市の大神神社であることはこちらで触れた通り。残る「伊豆加志本宮」の比定地も同じ奈良県桜井市の與喜天満神社とされています。
もちろん、比定地・伝承地は確定情報ではありませんが……
奈良県の元伊勢が、いずれも当時の大和朝廷の都の周辺にあり、御巡幸の「拠点」「中心」をなしていることは確からしく思えます。

問題は、そこ「から」どこへお遷りになったか、でしょう。

三輪「山」の麓から、豊鋤入姫命が、すなわち天照大神が目指された場所は、常に「海」だったように思えます。









動画を見てもわかる通り、「丹波:吉佐宮」の比定地は天橋立の近辺ですし、
「紀伊:奈久佐濱宮」「吉備:名方濱宮」は共に「濱(浜)」宮とあるように、やはり共に海の近くです。
(「倭姫命の御巡幸」の巡幸ルート略地図はわかりやすいのでよければ参照)
実際、二本目の動画では投稿主の方が「海が近い」と言っていますね。

もちろん、言うまでもなく、現在の伊勢神宮も、伊勢湾に臨む「海」の宮処でもあります。
神風の伊勢の国は「常世の浪の重浪寄する国」でしょう。

記紀に見られる「山」と「海」のモチーフについてもこちらで触れておきましたが……
島国ニッポン、太陽は海から昇り、海へと沈んでゆくのかもしれません。
太陽の女神の宮処が海辺に求められることは、それだけでもわかりやすい文脈かもしれません。
まして、神武天皇の母神・祖母神が海神の姫であることを考えれば、なおさらでしょう。
考えてみれば、最初の元伊勢・大神神社の大物主神も、大国主命の元へ、「海」の彼方から来訪されたのでした。

日本における神の国・いわゆる天国?のようなものといえば、「高天原」がイメージされるかもしれませんが……高い天の上だけではなく、海の彼方や海の底にも神々の世界は存在するようです。
沖縄のニライカナイなど、海の神国の伝承は島国・海洋民族には珍しくありませんが、神話体系としてはおそらく「高天原」のそれとは本来的にはルーツを異にしているのではないでしょうか。

しかし、

「海」神の姫と結ばれた「山」幸彦、
「海」からきて「山」に鎮座された大物主神、
「天」から降り「海」に鎮座された天照大神、

という、そこではつねに平和的な両者の「接近」がくりひろげられているようにも思えます。

そもそも、高天原の最高神という、左翼妄想的には「支配者」でさえありうるはずの天照大神が、自ら「天」から「海」に降られ、しかもそこは大和朝廷の「中央」ではなく「傍国」でさえあったこと、
大和の「中央」の「山」には、天津神ではなく、むしろ国津神・大物主神こそが主祭神として祀られていること、
など。
これらの事情の中には、単細胞な左翼妄想でははかりきれない深い趣がありはしないでしょうか。

神々の存在を「天」や「山」など垂直方向へ投射する神観念と、水平方向の「海」の彼方へと投射する神観念は、ここで、共存し、融合し、混然一体となっているのかもしれません。
豊鋤入姫命・倭姫命の御巡幸もまた、地元の人々を「言向けやわす」ことによって、それを可能にするうえで、大いに貢献された……と考えることも可能なのかもしれません。
倭姫命の御巡幸
posted by 蘇芳 at 16:32|  L 斎宮 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする