2016年09月20日

元伊勢としての大神神社


崇神天皇の御代には国家的な祭祀のあり方が再編成されますが、大和神社大神神社と並んで、この時代にあらためて整えなおされていったのが、天照大神の祭祀であることは、今さら言うまでもないでしょう。
それは、やがて伊勢神宮の創建へと至る、お二方の皇女殿下の旅の始まりでもありましたが……
その「始まり」の場所が他でもない大神神社だったかもしれないことは、元伊勢に興味を持っている方には常識かもしれませんが、それ以外の方にはあまり知られていない、気に留められていないことのような気もします。



動画概要:
2012/10/30 に公開
崇神天皇の御代、それまで皇居で祀られていた天照大御神を豊鍬入姫命に託されてお遷しになり、磯城神籬(しきひもろぎ)を立て、お祀りされた倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)です。その後、大神様は垂仁天皇25年(前5)に永久の宮居を求め巡幸され、最後に伊勢の五十鈴川の上流、現在の伊勢の神宮(内宮)に御静まりになりますが、大御神のご遷幸の後もその御蹟を尊崇し、元伊勢と今に伝えられています。

御祭神:天照大神若御魂神(アマテラスオオカミノワカミタマノカミ)
御祭神:伊弉諾尊(イザナギノミコト)
御祭神:伊弉册尊(イザナミノミコト)
住所:奈良県桜井市大字三輪
参拝日:平成24年4月21日
参考HP : http://bit.ly/Rmq6WY ※大神神社
御間城入彦五十瓊殖天皇即位六年己丑秋九月、倭の笠縫邑に就きて、殊に磯城の神籬を立てて、天照大神及び草薙劔を遷し奉り、皇女豊鍬入姫命をして齋き奉らしめたまふ。
「倭姫命世記」

「倭笠縫邑」がどこにあったのか、正確にはわかっておらず、伝承地・比定地はいくつかあるそうです。
そのうち、最も有名なのが、動画の大神神社の摂社・檜原神社でしょうか。

大神神社と同様、檜原神社にも社殿はなく、「三つ鳥居」を通して、三輪山を遥拝する形式です。
この「三つ鳥居」というのも大神神社特有のものですね。

御祭神が天照大神でありながら、御神体は大物主神のそれと共通というのは、あらためて考えてみると不思議な気もしますが……
まあ、豊鍬入姫命が当地にいらっしゃったころには、当然、神鏡という御神体がちゃんと別にあったわけではありましょう。
そもそも、本来的には三輪山自体はあくまで神の鎮まる場所であり、山中にもいくつもの磐座があるとのことですから、それら磐座に天照大神が降臨されるということもありうるのかもしれません。

次代の倭姫命ほどではありませんが、豊鍬入姫命も、大御神の御鎮座地を求めて、旅をされています。
豊鍬入姫命ゆかりの元伊勢は、奈良はもちろん、京都、和歌山、岡山あたりにもあるといいます。
倭笠縫邑に元伊勢最長の33年ものあいだ奉斎されたあと、なぜそんな遠隔地を転々とされなければならなかったのか、謎といえば謎ですが……
豊鍬入姫命が最後にたどり着かれた場所もまた、結局は大和=奈良県、大神神社でした。
一周回ってやはりフリダシに戻ってきたわけで、しかも「弥和の御室嶺上宮」という、その比定地のひとつは、さらに細かく言うなら、三輪山山頂、高宮神社であるとも伝承されているようです。

崇神天皇の皇居・磯城瑞籬宮の比定地が奈良県桜井市ですから、その近辺に大御神をお祀りすること自体はおかしくも何ともありませんが……
大物主神とのこの「同居」は、やはり何とも不思議な気はします。
皇室と大物主神との姻戚が重要だっただろうことは、こちらでも触れた通りですが……本当に大神神社が元伊勢だったのだとすれば、大物主神と天照大神を同じ山でお祀りすることは、それこそ、天津神(皇室)と国津神(豪族)の融和を意味していたのでしょうか? 
とすれば、それ以前の丹波や吉備や木の国への御巡幸もまた、各地の地方豪族との関係を見なければならないのかもしれません。

いずれにせよ、豊鍬入姫命の御巡幸は大和を中心に西の方面に偏っています。
日の出ずる方、東を指しての旅が始まるのは、御杖代のお役目が、次の世代・倭姫命に受け継がれてからのことでした。
その「バトンタッチ」が行われた舞台こそ、「弥和の御室嶺上宮」であると伝承されています。
五十八年辛巳、倭の弥和の御室嶺上宮に遷りたまひ、二年齋き奉る。この時、豊鍬入姫命、「吾日足りぬ」と白りたまひき。その時、姪倭比売命に事依さし奉り、御杖代と定めて、此より倭姫命、天照大神を戴き奉りて行幸す
「倭姫命世記」
大和を発して、天照大神を西に祀り、東に祀り……
それは同時代の、四道将軍の発遣や、景行天皇の征西、日本武尊の東征などとも、政治的にはパラレルなできごとだったのかもしれませんし、また、宗教的には、三輪の山から常世の波の敷浪寄する伊勢への移動には、「山」と「海」とのモチーフも関係しているように思えます。

「山」と「海」は、神武天皇御降誕へとつながる、海幸彦・山幸彦の物語にも見られたモチーフでした。
東征の途上では神武天皇の御兄弟は自らを「日の御子」であると同時に「海神の御子」であるとも称されています。
一般に天照大神は「太陽」神と言われますが、その子孫であらせられる神武天皇は、「海」神の姫・玉依姫を母に持ち、三輪「山」の大物主神の娘・媛蹈鞴五十鈴媛命を后とされているわけですから……
神武天皇は、従来区々バラバラな神々を祀っていた「八紘」が、皇室という「核」を持つことによって、「一宇」にまとめられていく過程を、その身をもって体現されているとも言えるのではないでしょうか。

崇神天皇の御代にはじまる祭祀の「再」編成もまた、神武創業の理念の再現・再演・総仕上げ、だったのかもしれませんし、だからこそ崇神天皇は神武天皇に並ぶ「御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)」であらせられるのかもしれません。
倭姫命の御巡幸
posted by 蘇芳 at 15:33|  L 斎宮 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする