2016年09月13日

【動画】奈良県天理市 大和神社(おおやまとじんじゃ)


洋の東西を問わず、神秘思想において、「3」という数字は特別なものであるようです。
ギリシア神話の三兄弟、キリスト教の三位一体、など、西のことはどうでもいいですが。
わが国においても、三貴子、三種の神器、宮中三殿、宗像三女神、住吉三神などなど、「三」にまつわる神聖性は枚挙にいとまがありません。
(住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)などは、もはや、「三」にこだわるあまり無理やり三つに分けたのではないかといいたくなるレベルのネーミングですね💧)

ところで、日本の国家的な祭祀の形があらためて整えられていくのは崇神天皇の御代からのことかと思いますが、このときに祀られた神々も、実は「三柱」でした。
崇神天皇の御代に三輪山の大物主神(大神神社)の祭祀が整えられたことは有名でしょう。
また、それに先立って、後の伊勢神宮の祭祀へと連なっていく最初の措置、天照大神(八咫鏡)の大和笠縫村への遷御が行われていることも、よく知られていることかと思います。
しかし、そのとき、こちらの動画でもはっきりと触れられているように、「倭大国魂神」の祭祀もまた整えられています。

「ヤマト」といえば、奈良地方のことであると同時に日本全体のことでもありえます。
実際、「倭大国魂神」も、日本書紀においては、「日本大国魂神」と表記されることもあるとか。
当ブログのタイトルは「日本のこころを探して」ですが、「日本」の「国」の「魂」といえば、まさに「日本のこころ」そのものといってもよい御神名です。
そんな神名をお持ちになる神様がいらっしゃることは心強いですが、同時に、その神様について詳しいことが今一つよくわからないというのも、残念なことです。

崇神天皇6年、「日本書紀」には、
これより先、天照大神・倭大国魂神の二神を、天皇の御殿の内にお祀りした。ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。(宇治谷孟訳、以下同じ)
とあります。
伊勢神宮創建の由来として有名な話ですが、神宮関連の一般書では、ほぼ確実に無視されているのが、天照大神と並び称されている倭大国魂神の御存在でしょう。
「天照大神・倭大国魂神の二神を、天皇の御殿の内にお祀りした」ということは、つまり、倭大国魂神もまた、天照大神と同様、皇居に「同床共殿」、天皇の御親祭によって祀られていたらしいことになり、まさに、天照大神と「同格」の大神だったことになりそうです。
にもかかわらず……
そもそもその「同床共殿」がいつどのような経緯で始まったのか、記紀にまったく語られていないというのも、不可解な話です(天照大神との「同床共殿」については天孫降臨の段に明記されています)。

崇神天皇の御代の物語は、このあと、大物主神の祟りと大田田根子の発見、三輪山の祭祀のはじまりへと続いていきますが……
倭大国魂神はここでも、やや「ついで」のように片づけられてしまっています。
十一月十三日、伊香色雄に命じて、沢山の平瓮を祭神の供物とさせた。大田田根子を、大物主大神を祀る祭主とした。また長尾市を倭の大国魂神を祀る祭主とした。それから他神を祀ろうと占うと吉と出た。そこで八十万の群神を祀った。よって天社・国つ社・神地・神戸をきめた。ここで疫病ははじめて収まり、国内はようやく鎮まった。
このあと、書紀の記述は有名な酒宴の場面に移り、神酒を詠んだ三首の歌が収録されていますが……登場するのは「大物主」「三輪の社殿」ばかりです。
倭大国魂神、このとき同時に祀られた「八十万の群神」よりは扱いが上ですが、やはりどうにも、大物主神よりは扱いが小さいというか、それに次ぐもののように見えます。

天照大神はいうまでもなく皇室の祖先神であり日本国民の総氏神。
大物主神も、初代神武天皇の后・比売多多良伊須気余理比売(媛蹈鞴五十鈴媛命)が、大物主神の娘ということになっていますし、こちらで見た長浜浩明氏の言うように「蹈鞴製鉄」との関連もあるとすれば、なるほど重要でもあるでしょう。
しかし、これら二柱の神々と並び称されながら、同時に、微妙に扱いが雑に思えなくもない「倭大国魂神」は、いったい、どのような神であったのか……
「同床共殿」という意味では天照大神と重複する神格のようにも思え、
「倭」の神であると同時に大国主命と同一視する説もあることなどからは、大物主神と重複する神格のようにも思え、
何とも不思議な神様です。

まあ、たとえば冒頭にあげた三貴子のなかでも、月読命は、他の二柱に比べて異常に挿話が少なかったりもしますし……
住吉三神のように、とにかく「三」という数字をそろえること自体に意味がある、のかもしれません??
それで片づけるのもどうかとは思いますが💦
ちなみに倭大国魂神を祀ったとされる大和神社自体、「延喜式」には、「大和坐大国魂神社三座」と記され、ここでもやはり「三」だったようです。

何にせよ、元は天皇・天照大神と「同床共殿」だったという伝承があるのですから、朝廷から崇敬された神社には違いなく、「日本書紀」にも持統天皇6年五月の条に、藤原京の造営に際して、「伊勢・大倭・住吉・紀伊の大神」への奉幣の記録があったり、平安時代には大和神社が二十二社にも選ばれるなど、祭祀は脈々と受け継がれていったようです。

しかし残念ながら、大和神社は永久六(西暦1118・皇紀1778)年、火災によって社殿と御神体を焼失。
その後、再建はされるものの、著しく衰退し、かつての勢いを取り戻すことはなかったといいます。
大和神社が官幣大社に列し、御神体を新たにして本格的に復興するには、明治の御一新を待つ必要があったそうで……
伊勢神宮や大神神社と創建の由来を共有する古社の伝統が、この長い長いブランクに見舞われなければならなかったことは、国家的な祭祀にとって、本来なら痛恨のきわみであるはずのようにも思えますが……
そのわりに話題になる機会は少ないようにも感じられるのは、少々残念です。




なお、動画には幾度か「戦艦大和」の文字が見えていましたが……
戦艦・大和の艦内神社に祀られていたのは、その名のとおり、大和神社御祭神・倭大国魂神の分霊だったそうです。
そういう意味でも「日本のこころ」な神様かもしれませんね。。。

帝国海軍と艦内神社――神々にまもられた日本の海
すぐわかる日本の神社―『古事記』『日本書紀』で読み解く
posted by 蘇芳 at 15:16| 神道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする