2016年08月11日

梵釈寺

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寛和二年(西暦986、皇紀1646)、藤原兼家とその息子・道兼が、第65代花山天皇を騙して出家させ、第66代一條天皇を即位させたことは有名でしょう。平安時代、天皇の「出家」は、すでに「退位」とセットでした。
譲位されたのちに出家して法王となられた上皇は御歴代のなかに数多おいでになりますが、在位中に出家されたり、出家後に還俗もなさらないまま践祚された天皇は、長い皇統の歴史の中で、例外中の例外です。
聖武天皇、孝謙・称徳天皇の君臨あそばされた奈良時代が、いかに「異常」な時代だったか、このことに徴してみても明らかでしょう。
あげくのはてに道鏡事件さえ引き起こした南都仏教の腐敗・堕落はもはや明らかでした。南都仏教との決別が、桓武天皇にとって急務だったことは、今さら言うまでもないことかと思います。
しかし、外来カルトの仏教も、公伝以来それなりの時間を経て、すでに日本に根付いてしまっています。天皇・皇族や有力豪族の発願で建立された寺院も数多くあります。今さら仏教そのものを弾圧することは不可能でしょう。
桓武天皇に可能であり必要だったのは、腐敗堕落した旧仏教との決別であると同時に、また、本来あるべき正しい仏教の形を示して見せること、いわば仏教の立て直し・仕切り直しだったのではないでしょうか。
前者は遷都によって、後者は北嶺の新仏教の創設によって成し遂げられた、と、大きな視点では言えるのかもしれません。
が、そこへ至るまでにも、天皇はいくつかの施策を試みておいでだったようです。

「続日本紀」巻第三十八、延暦五年正月二十一日の条に、次の記述があります。
正月二十一日 近江国滋賀郡に初めて梵釈寺を造営した。(宇治谷孟訳)
村尾次郎「桓武天皇 (人物叢書)」によると、同じ勅願寺といっても、梵釈寺は、奈良時代の豪壮・華美な大寺院からは、面目を一新した存在だったようです。
梵釈寺には、延暦七年に下総・越前の二国から各々五十戸、計百戸の封戸が施入され、近江で水田百町を賜ったほか、『延喜主税式』に寺用の出挙稲六百七十六束を計上した記録があると言います(出挙というのは一種の高利貸しですから、元本稲六百七十六束のうち、実際の収入になるのは、利息分の二百束くらいだろうとのこと)。
これを他の諸大寺と比較してみると、その経済力の貧弱さは驚くほどだそうです。
同じ近江国でも、国分寺には六万束、天智天皇勅願の崇福寺には一万五千束、国興寺に千束、浄福寺に七千束、延暦寺には六万七千束の元本稲が充てられていると言います。
他にも大安寺は六か国合計で二十万五千九百束、薬師寺は五か国で十六万九千束、興福寺は三ヵ国で九万二千束という額を記録しているとかで……
梵釈寺がいかにつつましやかな寺院だったのかがわかります。

平安遷都前の延暦五年、まだ平城京においでになった治世の初期に、いち早くこのようなつつましい寺院を、よりにもよって天智天皇ゆかりの旧京に建立されたことは、贅沢三昧の南都仏教の生臭坊主どもに対する、一種の「あてつけ」であるようにも思えなくはありません(聖武天皇・称徳天皇は天武系皇胤)。
「清貧」は、旧仏教の腐敗堕落に対して、桓武天皇がお示しになった、あるべき新仏教の重要な要素の一つだったのかもしれません。

それだけではありません。

「続日本紀」や「日本後紀」を読むと、桓武天皇は、諸寺の僧侶に対して、くりかえし、何度も、お叱りの詔勅を渙発されているようです。
大雑把に言うと、もっとまじめに怠りなく学べ、という内容ですが……
さらに詳しく見ると、「三論」と「法相」の一方に偏ることなく、両方を学べ、と仰せになっているようです。
これは何を意味するでしょうか?
特定宗派の教義を無批判に「信仰」するだけではなく、広く諸説を比較・考究して、客観的により正しい結論へ至ることを目指せ、という……宗教的というより、合理的・理知的・学問的な姿勢が、そこに示されているように感じるのは、私だけでしょうか?

はるか後世の徳川幕府は公式の学問として「儒学」を奨励しましたが、これはアジアの他の国々においては「儒教」という宗教でした。
日本でも一時的突発的に宗教としての流行を見たことはあるようですが、結局のところ、根付くことはありませんでした。
日本は、淫祀邪教の毒を排除して、有用な道徳哲「学」として飼いならすことに、儒教・儒学の場合には成功した、と、言えるのかもしれません。

梵釈寺において、また数々の詔勅によって、桓武天皇が志された目的もまた、淫祀邪教と化したカルト仏教から、その政治性・狂信性・非合理性などなどの「毒」を除去し、国家によって有用な哲「学」として再生させることだったのではないでしょうか。

ちなみに「梵釈寺」の「梵釈」とは「梵天」「帝釈天」のことですが、これらは共に「護神」であり、他の四天王など仏教の神々とは質的に異なる存在だと……前掲書の村尾次郎は言います。
地上に降りて衆生済度の実践を行う神々ではなく、あくまで、衆生済度のための法そのものを守護する神々であり……つまるところ、その法とは何か、衆生済度のためにはどうすればよいのかを「探求」することこそが、梵釈寺の使命だった、ということになるようです。
それは、寺院というより、むしろ学堂であり、そこで学ぶ僧侶は、いかがわしい祈祷師の類ではなく、清貧の求道者であり、あくまで「学僧」だったのではないでしょうか。

桓武天皇は、とても崇高な理想を追求されたように思えますが……
しかし、仏教の腐敗堕落がその後もくりかえされつづけたことは周知の事実。
高邁な理想は、低俗な現実の前に、敗退を余儀なくされるのが世の常ということでしょうか、当時の梵釈寺はやがて廃れ(同名の寺院は現存するようですが関係は不明)、今ではその寺がどこにあったのかさえ、複数の説があり、ハッキリとは確定されていないようです。

また、桓武天皇ご自身、早良親王(祟道天皇)の怨霊などに苦しめられ、やがて加持祈祷的な仏教の誘惑に傾いてゆかれることになってしまった……とも言われているようです。
桓武天皇が開かれた平安時代が、やがて末法思想の流行や加持祈祷の類に明け暮れ、叡山の政治勢力化を見ることになるのも、よく知られていることでしょう。

それでも、なお、冒頭で述べたように、在位中の天皇が、位につかれたままで出家される、などということは、称徳天皇以後、長く行われなくなっていくようです(浅学非才の身なので他に例外中の例外が絶対になかったと断言するほどの自信がないのがわれながら情けないですが)。
太政大臣が出家しようと、武家の棟梁が出家しようと、上皇が出家なさろうと、宮中祭祀をつかさどられる天皇が同時に仏弟子である、というこちらで見たような異常事態だけは回避されるようになったわけです。
それを成し遂げられたということだけからでも、桓武天皇の仏教政策は偉大であったと申し上げるに足るのではないでしょうか。
続日本紀(下) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
日本後紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
桓武天皇 (人物叢書)
桓武天皇―当年の費えといえども後世の頼り (ミネルヴァ日本評伝選)
posted by 蘇芳 at 01:58| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする