2016年08月05日

黄門様と神道

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水戸光圀といえば何はさておき全国行脚「大日本史」の編纂が有名ですが。
彼の編纂事業には他に「神道集成」などもあったりします。
「大日本史」はのちの尊皇攘夷思想に大きな影響を与えた書物ですが(一例をあげれば、和気清麻呂に護国の英雄としてスポットを当てたのは「大日本史」が嚆矢。それ以前は藤原氏の功績とする見方が主流)、尊皇の行き着くところは皇祖神。また徳川をはじめ源氏を名乗る武門も元は皇族ということになりますから、皇祖神は源氏の祖先神ということにもなります。「大日本史」の編纂者が同時に熱心な神道者でもあったとしても、驚くにはあたらないでしょう。

元々、織田信長にはじまる天下統一の事業は、武家同士の主導権争いであるだけにとどまらず、一面においては、一向一揆をはじめとする狂信的・カルト的かつ政治勢力化した仏教勢力との抗争でもありました。
天皇の臣下(右大臣、太閤、征夷大将軍)として天下統一を果たした武家政権にとって、宗教政策とは、仏教を統制し、神道(≒皇道)をこそ尊重するものをおいてほかにないはず、とも考えられるでしょう。
それはまた、徳川が保護し奨励した儒学(儒「教」ではなく)の君臣論的道徳哲学からも、正当化されうる要請であったように思います。

井上智勝「吉田神道の四百年」によれば、水戸の「神道集成」は、
仏教の伝来とその後の発展によって、神国日本の淳良な風俗が失われたという意識
から編まれたものだと言います。
日本書紀続日本紀をあらためて読み返してきた身としては深く同感せざるをえない思想ですが……
藩主でもある光圀、この思想を単なる机上の学問には終わらせず、政策として実行していくことになったようです。

光圀は、まず神社には「鎮守開基帳」、寺院には「開基帳」を作成させ、寺社存立の由来・根拠の予備調査を行っています。
それが済むと、寛文5年(西暦1665、皇紀2325)には寺社奉行を設置、領内の寺社の実地調査にも乗り出します。
そして翌寛文6年(西暦1666、皇紀2326)には、寺院整理に着手。経営難の寺院・無住職の寺院・僧侶の質が劣悪な寺院・貢租地にある寺院・新興の寺院・祈祷専門の寺院・城下町整備のために立ち退かせた寺院などなどを、本寺の承認を取った上で廃却していったといいます。その数1098寺。当時水戸藩内にあった寺院総数2088の半数以上に上ります。
寺院だけではありません。
上の「神道集成」の編纂意図にもとづけば、神仏習合によって「堕落」したり、得体のしれない土着信仰の拠点となるような神社も、整理対象になりえます。
水戸藩は元禄9年(西暦1696、皇紀2356)に「鎮守帳」を作成。一村一社制を徹底させるとともに、神仏習合色の強い神社は、仏教色を払拭させるか、さもなくば破却していきました。また、僧侶や百姓などが管理していた神社も、すべて神主の管理にあらためています。当時はご神体が仏像だった神社も多かったようですが、それら仏像も破棄され、鏡や幣などにあらためられたとも言います。

また、光圀の神道政策としては、八幡宮の廃止、ということも行われたといいます。
領内の八幡宮を廃止して、名前や祭神を変更させるという政策で、判明しているだけでも100を越える八幡宮が水戸藩領から姿を消したといいます。
徳川も一応源氏を名乗っている以上、八幡太郎義家の子孫をもって任じているはずですから、八幡宮へのこの厳しい措置は一見すると不自然ですが……続日本紀を読み返した当ブログの読者なら、八幡宮がこちらで見たような神社であったことも、覚えておいでかと思います。
光圀の真意については諸説あって不明ではあるようですが、前掲の「吉田神道の四百年」によれば、それら八幡宮がどのような神社に改称させられたかといえば、鹿島神社、静神社、吉田神社などが多く、この三社はそれぞれ水戸藩庁の所在地・常陸国の一宮、二宮、三宮で、いずれも式内社(「延喜式」に記載された由緒正しい古社)であるといいます。名称・祭神こそ変更させられたものの、神社・神職そのものは、八幡宮であった時と変わらぬ、あるいはそれ以上の待遇・崇敬を受け続けることも可能ではあった、ようではあります。

個々の神々への光圀の理解はさておき、その政策が、単なる「破壊」や「禁教」「弾圧」を意図するものではなく、あくまでも「堕落」した宗教界を公序良俗・経世済民にかなうあるべき形に「再生」させることを意図した「改革」であったことは、確からしく思えます。
そして、このような改革の動きは、ひとり水戸藩だけでなく、保科正之の会津藩、松平頼重(光圀の実兄)の高松藩、池田光政の岡山藩などでも見られたようです。
徳川の世を盤石ならしめる地固めのひとつとして、これら有力大名の神道政策にも、それなりの効能があったと見ることは可能ではないでしょうか。
何となれば、これら各藩の改革は、幕府の意図に反して行われたわけでは決してなく、幕府の全国的な宗教政策に合致する(あるいは便乗する)形で行われたものであったはずでしょうから。

そして、当時、徳川幕府が「公認」した神道といえば、ほかでもない、こちらこちらでふれた吉田神道でした。
室町時代以来、次々に武家政権に取り入ってきた吉田神道ですが、仏教に毒されていない「唯一宗源神道」を名乗る吉田神道は、上で見たような尊皇思想的・儒学的要請に、よく応えうるものでもあったのでしょう。

もちろん、吉田神道は吉田神道で、数々の問題をはらんだ神道ではありました。
何よりも権力と癒着しすぎましたし、本物の神道を名乗るわりには肝心の伊勢神宮とは犬猿の仲です。
上で見た一村一社制をはじめとする中央集権的な管理・統制は、自然発生的な地域共同体や既得権益の破壊を意味する場合もありえたでしょう。
利権のあるところには利権にあぶれたものもつきものですが、彼らはやがて神道界のもう一つの雄、神祇伯・白川家へと結集していくことにもなるようです。

何より、時の武家政権と癒着した吉田神道は、徳川の世が盤石であるあいだは良いものの、こちらで見たように、尊皇思想が討幕を志向するようになっていくと、旗色が悪くなっていかざるをえないようです。

吉田神道は、神道を仏教の上位に位置付けましたが、仏教そのものを否定したわけではありません。
神号としての「権現(仏が「権(かり)」に姿を「現」した)」の存在は容認していました。
ただ、神仏習合的な「権現」よりも、純神道的な「明神」号のほうが、格上であるとしていただけです。
これだけでも、長らく仏こそが「本地」であり、神々より格上だとされてきた神仏習合説の革命的転倒ではありましたが……
やがて尊皇思想の高まり≒儒家神道の百花繚乱を迎え、仏教そのものを排除した信仰観が力をえて、討幕派に影響を与えていったらしいことは、こちらで軽く触れたとおりですし、それら先鋭化した尊攘派から見れば、吉田神道の神仏儒習合は中途半端であると批判・攻撃の対象にもなりえたのではないでしょうか(幕府と癒着しているのですからなおさらです)。

揺らいだ権威を回復するため朝廷の権威を利用しようとした徳川幕府は、こちらで見たように、やがてその尊皇思想にかえって自らの首を絞められることになり、徳川御三家・水戸藩の編纂した「大日本史」はやがて討幕派のバイブルにもなっていったように、吉田神道もまた自らの唱えた「純粋」な神道というテーゼにかえって追いつめられることになったのかもしれません。

徳川300年の太平とその崩壊、維新の大業という政治的転変の歴史は、同時に、先人たちの思想的格闘の歴史でもあったのではないでしょうか。
近代日本誕生の「こころ」を理解するうえでも、神道への目配りは、やはり、不可欠であるように思います。
吉田神道の四百年
わかりやすい神道の歴史

追記:
上で触れた、会津藩主・保科正之の思想的系譜には、歴史の皮肉がとりわけよく表れているようにも思います。
正之は、諸般の事情から吉田神道の奥義を伝授された吉川惟足に心酔すると同時に、儒学者・山崎闇斎にも師事していたと言います。
吉川惟足、山崎闇斎……すなわち「垂加神道」です。
桃園天皇の御代、垂加神道の神職が公卿に「日本書紀」の講義をして幕府に弾圧されたという宝暦事件は有名でしょう。
保科正之と吉川惟足、山崎闇斎の関係を知った上で、やがて「朝敵」の汚名を着せられることになる幕末の会津の運命を鑑みれば、思い半ばにすぎるものがあるのではないでしょうか。
posted by 蘇芳 at 21:33| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする