2016年07月31日

新田部親王の血筋

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何度も引用しているように、聖武天皇は、皇紀1389年(神亀6、西暦729)四月三日、
舎人親王が朝堂に参入する時、諸司の官人は親王のため座席をおりて、敬意を表するに及ばない。(宇治谷孟訳)
という謎の詔を渙発されています。
仏教に傾倒される天皇と、敬神愛国の書「日本書紀」編纂の中心人物の間に、隙間風が吹きはじめていたのではないでしょうか?
この対立が事実だとすれば、淳仁天皇の擁立と廃位、舎人親王の子孫のその後の運命、なども理解しやすくなるように思いますが……
もちろん、聖武天皇もやみくもに皇族間の争いを助長されたわけではなく、舎人親王とは対照的に、聖武天皇と良好な関係を維持し続けた皇族もおいででした。それが最終的に良い結果をもたらしたかどうかは別として、ですが。。。
舎人親王と並ぶ有力皇族の一人・新田部親王の血筋を押さえておくと、奈良時代における政治的思想的対立軸の存在が、さらに見やすくなるかもしれません。

wiki情報で恐縮ですが、
養老3年(719年)10月、ときの元正天皇は、舎人・新田部の両親王に皇太子首親王(のちの聖武天皇)の補佐を命じるとともに、宗室の年長者であり天皇にとっても重要な人物であるとして、これを褒賞し、それぞれ内舎人・大舎人・衛士を与え、封戸を加増している
だ、そうです。
舎人親王と新田部親王は、共に、聖武天皇の後見者たるべく定められていた双璧だったことがわかります。
その一方の雄・舎人親王に対して、聖武天皇が先の詔を渙発されたことはいかにも異常に思えますが……
対する新田部親王はその後も厚遇されつづけているように思われます。

八幡神を利用した異様な大仏建立セレモニーの後、聖武天皇は孝謙天皇に譲位され、やがて崩御されますが……崩御の直前、次の皇太子として道祖王を指名する遺詔をお残しになりました。
この道祖王は、新田部親王の御子です。

しかし道祖王は皇紀1417年(天平勝宝9)適当な理由をこじつけて廃位され、やがて橘奈良麻呂の乱に連座して死に追いやられました。
この時は他にも多数の皇族が連座していますが、そのうちの一人・塩焼王は、かろうじて死を免れ、皇籍を離脱するだけですんでいます。
そこには、塩焼王が聖武天皇の皇女・不和内親王を妻としていた、という事情が、何らかの意味を持って作用していたのではないでしょうか?
塩焼王は言ってみれば「聖武天皇の義理の息子」であり、「孝謙天皇の義理の兄弟」でもあったわけですから。
そして、この塩焼王もまた、新田部親王の御子であり、つまるところ道祖王の兄弟でした。

聖武天皇は、新田部親王の御子(道祖王)を皇太子に指名され、新田部親王の御子(塩焼王)に皇女を嫁がせておいでになったわけです。
「聖武天皇の後見者たるべく定められていた双璧」にして、舎人親王に対するそれとは、ずいぶんとかけ離れた好意的な扱いではないでしょうか。

これまでくりかえし考察してきた「聖武系VS舎人系」の対立とは、別の側面から整理しなおしてみれば、「聖武天皇・新田部親王VS舎人親王・藤原氏」という対立でもあったのかもしれません。
両者の思想的背景を考慮すれば、それはあるいは、「神仏習合VS神仏分離」の対立でもあったように感じられますが……
新田部親王の御子(道祖王)を排して、藤原仲麻呂と光明皇后が擁立した大炊王(淳仁天皇)こそは、他でもない舎人親王の御子だったのですから、この対立軸に気づいてみれば、いかにもわかりやすい、よくできた話です。
しかも、やがて藤原仲麻呂と淳仁天皇は、他でもない聖武天皇の娘(孝謙・称徳天皇)と道鏡に殺害されるのですから、さらによくできた因縁であるとも言わざるをえないようです。

さて。

この抗争の過程で、塩焼王(氷上塩焼)自身は、目先の栄達を求めて仲麻呂に接近、恵美押勝の乱に巻き込まれて非業の最期を遂げていますが……彼の妻子はその後も生き延びました。
不和内親王と、氷上川継です。
氷上川継は、「聖武天皇の孫」であると同時に、「新田部親王の孫」でもあるわけです。

こちらで確認したように、称徳天皇の御代(道鏡時代)に散々な目にあわされた舎人親王の子孫は、光仁天皇の御代に次々に呼び戻され、皇籍への復帰を認められています。
次の桓武天皇の御代には、いよいよ南都仏教との決別≒遷都が実施されんとしました。
この潮流に抗っておきた川継の乱の意味も、以上の血筋とそれが意味する思想的背景から類推すれば、さらにいっそうわかりやすくなるのではないでしょうか。

川継の乱自体は、未遂に終わった事件ではあります。
川継自身にどこまで強固な謀反の意思があったのか、むしろ周囲が川継を担ごうとしただけだったのか、あるいは桓武天皇の側が仕掛けた謀略の類だったのか……詳細はよくわかりませんが、「聖武天皇の孫」であり「新田部親王の孫」である氷上川継が、南都の守旧勢力(それはすなわち仏教勢力でもあったでしょう)を糾合する旗印たりうる位置にいたことは、間違いないように思います。

仏弟子・聖武天皇の御代以来、舎人親王と新田部親王のそれぞれの血筋がそれぞれにたどった命運を、その思想的背景と共に見直してみることで、「奈良時代の政争」と一言で片づけられがちな時代の内実が、多少なりとも、見えやすくなりはしないでしょうか?
歴代天皇で読む 日本の正史
続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
続日本紀(中) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
続日本紀(下) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
ラベル:天皇 続日本紀
posted by 蘇芳 at 01:13| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする